◎四雫目


と、とうとう来てしまったぞ…。
中をそーっと覗くとあれ?誰もいない?おかしいな…毎日いると聞いたのだが。
プールに近づくと真ん中の底の方に動く影が見えた。
なんだ潜っていたのか…。
暫く眺めていたが、やはり泳ぐ姿は人魚のように美しかった。
それにしてもいつまで潜っているのか。オレが来たときから潜っているから結構な時間になっている。
動いているから溺れているわけではなさそうだが。
少し心配になってプールサイドに近づきしゃがんで中を覗こうとしたその時。

「…、ぷはっ。」

目の前に人魚は現れた。
ち、近い!顔が近い!
離れようと慌てて尻餅をついてしまった。
この山神が尻餅とは…!カッコ悪いところを見せてしまった!なんたる不覚!

「…………珍しい侵入者ですね。」
「あ、いや、すまない。えーっと…。」

なんと言えばいいのだろうか。
美しい人魚をもう一度見たくて、なんて言ったら本当にただの侵入者ではないか。
もっとクールでスタイリッシュな言い訳は…。

「こんばんは、東堂先輩。」
「え、あ、うむ。こんばんはだな。」

侵入者と言った割に警戒せず挨拶されて少し拍子抜ける。
真波にとはまた違った不思議な子だな…。

「苗字さんは…。」
「私の名前知ってらっしゃるんですか?」
「あ、あぁ。荒北や新開に聞いてだな。」

苗字さんはそうですか、とポツリと言う。
まぁオレほどの有名人なら名前を知られていても分かるがそうでない人は自分の名前を知られていたら驚くだろう。

「それで、私に何かご用ですか?」
「いや、用があるわけではないのだが…。」
「そうですか。」

それっきり無言になってしまう。
おい山神!いつものトークはどうした!沈黙などありえぬぞ!話題を探せ!

「先輩。」
「な、なんだね!」
「いえ、呼んでみただけです。」
「そ、そうか…。」

無表情からは何を考えているのか読み取ることはできない。
コイツはいったい何者なのか。
本当に人魚なのではないか、そう思ってしまう。
儚く、消えそうな、そんな感じだ。

「なぁ苗字さん。」
「なんでしょう。」
「君は、なぜここにいるんだ。」

すると彼女は今までずっと無表情だった顔を少しだけ、少しだけ緩めた。

「王子様を待っているんです。」

月明かりに照らされたその表情はとても神秘的な美しさを纏っていた。



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