01
雨の日の朝は、空気中に含まれる湿気が多くて、同じ部屋にいる七瀬の匂いがよく分かる。しっとりとした、目には見えない粒子のようなものを感じることができる。
「今日、最後の仕事はななと#name2#での撮影やって」
「え? #name3#とまっつんの撮影だって聞いてたけど」
「変わってん」
何気ない七瀬の言葉に、#name2#はこっそりため息を吐く。久しぶりの沙友理と二人の仕事を内心楽しみにしていたけれど、諦めるしかなさそうだ。
トースターが軽快な音を鳴らす。七瀬がパンを二つの皿に分け置いている。こんがりときつね色に焼けたパンは中央の裂け目からうっすら湯気を立ち昇らせている。#name2#はこの湯気を見る度に、まるで自分の気持ちが蒸発していくのを視認しているようだと感じる。
「バター? ジャム?」
七瀬は慣れた手付きで無塩バターの蓋を開け、自分の分に塗り始めた。
「何も付けないでいい」
「分かった。あ、今日な、撮影の後ななは雑誌の取材も入ってんねん。先に帰らんと待っとってな」
乃木坂の顔である七瀬は、同じ選抜である#name2#と比べても圧倒的に仕事量が多い。それなのに、夜は眠いとぼやきながらも#name2#が寝るまでベッドに入らず、朝は必ず#name2#よりも早起きをしている。
「#name3#の方が遅くなる時は、先に寝てていいからね」
「大丈夫。#name2#の隣で寝ると、睡眠時間少なくても疲れ取れるから」
七瀬にとっての#name2#はとても性能のいい枕のようなものらしい。その枕で寝るだけで普通に寝るよりも疲れが取れたりぐっすり眠れたりする。対して、このところ七瀬の隣では落ち着いて眠れない#name2#にとっては、理解し難い話だった。
七瀬は自分で用意した簡単な朝食を採り終えると、リビングに唯一ある二人掛けのソファーに腰を下ろした。二人で暮らすようになった後に、どうしても欲しいと七瀬の強い希望があって買ったものだ。七瀬はオフホワイトのそのソファーに#name2#と七瀬以外のものが座ることに嫌悪感を示し、それは家に何個か置いてある無機物なぬいぐるみに対しても適応される。
「何してんの?」
自分の分の朝食を口に運びながら#name2#は聞いた。噛り付いたパンの断面から新しい湯気が立ち昇る。
「乃木ライン」
スマホをポチポチとやりながら、七瀬は複数のトーク画面が表示されているところを見せた。乃木ラインとは通常のラインの中で、乃木坂メンバーのみで構成された様々なグループを指している。
「それ#name3#のスマホだよね?」
「うん」
七瀬の声が少し沈む。
「別に#name2#のスマホ使ってもええやろ。それとも何? 何かやましいことでもあるん?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
七瀬は家であまり自分のスマホを使わない。その代わりいつも#name2#のスマホを使いたがる。#name2#に成り済まして平然と返事を送ったりするものだから、さすがに頭にきて使用禁止を言い渡したところ、途端に七瀬の瞳は堕ち窪み、掠れるような声で気持ちを確かめられたことがあった。
――ななは#name2#が一番好き。#name2#もそうやんな?
――好きやで。めっちゃ好き。#name2#がおれば他は何もいらん
その頃から#name2#は、七瀬と自分の想いの重さが違うと感じるようになっていた。お互いに人見知りで消極的な性格だった二人は、結成後真っ先に仲良くなり、想い合うようになった。同棲するようになる頃にはもうすっかりできあがっていた。
――……#name2#、ななのそばから離れんといてな
――うん。ずっと七瀬のそばにいるよ。だから七瀬も、#name3#から離れないで
永遠の蜜月を誓い合った日々は遥か遠く、今では毎朝少しずつ#name2#の心から気持ちが湯気のように蒸発して消えていく。ただそれは#name2#の気持ちが他に揺らいだということではなく、七瀬の束縛が増していく中での変化だった。
「ななみんから#name2#にご飯行こうってラインきてたで。ななその日行けんから、断っておいた」
七瀬は#name2#にきたはずのラインに手早く返事を書く。
「あとはまあやからお泊り会のお誘いきてるけど、ななにもきてるから一緒に返事送っておくな」
七瀬の指が流れるように画面の上を滑る。誰かと二人で遊びに行くのはダメ、七瀬を含めた三人以上で遊ぶならオーケーというルールは、#name2#が知らない間に決まっていた。
「断るだけじゃなくて、ななみんにも違う日にまた行こうって送っといてね」
できるだけ興味がない風に聞こえるように言うと、#name2#はまたきつね色のパンを齧った。
ふんわりした生地を口に入れると、恋心という目には見えない気持ちが腹の中に溜まっていく感覚がする。七瀬はそんなことを考える#name2#には気付かずに、毎朝の流れ作業のように二人分のラインを返している。
「そういえば、ひめたんの話聞いた?」
思い出したようにスマホを投げ出して、七瀬が言った。ぼんやりと七瀬の背中を見ていた#name2#は、突然振り返った七瀬にドギマギとする。
「あー、聞いた。足怪我しちゃったんだってね」
咄嗟にそう答えると、七瀬の顔からすっと表情が消えた。
「#name2#が嫌がってるのに、無理やり髪触ってリボン付けたりなんかするから、罰が当たったんや」
「は? 七瀬、何言ってんの」
#name2#は軽く笑いながら続ける。
「ひめたん、高いヒールの靴履いてて駅の階段で転んじゃったらしいよ。疲れてたのかな。そんなことで罰なんか当たんないよ」
そう、と特に興味もない様子で、七瀬は立ち上がった。そのままダイニングに来て#name2#の対面に座る。両手で頬杖を突きながらじっと#name2#を見つめる。#name2#の喉がキュッと閉まる。人に見つめられながらものを食べるのは気恥ずかしい。
七瀬の指が伸びてきて、#name2#の口元に付いたパン屑を丁寧に払い落とす。幸せそうな七瀬の表情。
その時、誰よりも見ているはずの七瀬の顔をまだ可愛いと思える自分に、#name2#は安堵した。
「いっつも口に何か付けて、可愛いなぁ」
「それは七瀬が食べてる途中ばっか見てるからだよ。食べ終わったらちゃんと拭いてるし」
「怒ったん? ななはそんなとこも好きやで」
「あ、ありがとう」
最後に、僅かにパン屑の付着した自分の指をくわえると、七瀬は嬉しそうな顔をしながら洗面所に向かって行った。途端に部屋の中が静かになる。
七瀬はもうすぐ仕事のため、家を出なければならない。七瀬より入り時間の遅い#name2#はこの後の時間の使い方を考える。テーブルの上に放り出されているスマホを見やり、とりあえずは自分にきたラインと七瀬が勝手に打った返事をすべてチェックすることにした。
「そうや、ラインのアイコン画像、ななとのツーショットに変えといたから」
七瀬は、かつて#name2#がアイコン画像を沙友理と顔を寄せ合っているものに変えた時、スマホを湯船に投げ込んで壊したことがあった。七瀬の琴線には何が触れるか分からない。
画面の中で仲良さそうに笑い合う自分たちを見ながら、#name2#は最後の一口を押し込んだ。これを変えたらまたこのスマホは壊されるのだろう。
七瀬が家を出る。七瀬の唇は熱く、#name2#の唇は冷めていた。
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