呼んでもいいよ
時計の針が何週か回った。気づけばもう日付が変わっている。
あれから小十郎に隣で監視されながらも外来の患者様の応対をこなした。
ぎこちなさはあるが、最終的に「まあ1日目にしてはよいでしょう」との言葉を頂いた。
伊智子は嬉しくなってにっこり笑ったが、「この小十郎が指導したのですから、明日はもっと良い姿を見られると期待しております」と静かに言われて笑顔が消えた。
「さて…このあたりで受付は閉めましょうか。看板を置いて、机の上を整理してください。」
「はい、えっと…これですね」
小十郎はそう言って椅子から立ち上がった。
伊智子は言われたとおりに受付のガラスに唯一開いてる四角い穴をふさぐように看板を置いた。
その看板には「本日の受付は終了いたしました」と書いてある。
「では、私はこのまま黒服の業務に戻ります。そのあとこちらに戻ってきますので、そうしたら終礼です。伊智子様にも勿論参加して頂きますのできちんと待っていてくださいませ」
「わかりました、あ…あの」
「?はい、なんでしょうか」
伊智子は椅子から立ち上がり小十郎の顔をじっと見つめてから、頭を下げた。
「あの、小十郎さんがずっと隣にいてくれたので、とても安心してお仕事できました。ありがとうございます」
「……」
感謝の言葉を伝えたが、小十郎は黙っている。
「…小十郎さん?」
もう一度名前を呼んだ。
すると、伊智子はようやく小十郎が黙っている理由に気づいたらしい。
真っ赤になってその場でくるくると回った。
「ああっ!ご…ごめんなさい!私…すみません…こじゅ…片倉さんが自分のこと、小十郎ってよく言うから…私…すみません本当に…なれなれしい…」
「…いえ。問題ございません。そのまま呼んで頂いて結構です」
許可なく小十郎の名を急に呼んでしまったことに狼狽するが、小十郎は特に気にした様子もなくそれを許した。
しかし、今までの言動から優しい言葉をつい怪しんでしまう伊智子は念を押すように聞いた。
「本当に良いんですか?」
「まあ、やめて頂く理由もございませんので」
もう行ってよろしいでしょうか?みたいな顔をしていたのできっと本当に良いのだろう。
「…わかりました、ありがとうございます、小十郎さん」
伊智子がにっこり笑うと小十郎はかすかに口の端を上げたがすぐいつもの顔に戻り、そしてふいっと顔を背け「…では、失礼致します」と行って受付から出て行った。
片倉小十郎は当初、伊智子という存在を怪しんでいた。
誰の口聞きでもないのに、急に入社すると聞かされた。しかも女。しかも18歳…
まだ子供だからとか、おねね様のお墨付きだからと言っても怪しい人物なのは変わらない。
ちょっとからかってやって、コロッと態度を変えてきたら「規律を乱す恐れがある」としてつまみ出そうと思っていた。
実際今までだって何人もいた。
自分にあからさまな好意を向ける者もいた。
周囲の見目麗しい男性陣に媚を売るのに必死で、業務に真面目に取り組まない者もでた。
そのたびにこちらは残酷な手段を選ばざるを得なくなってしまう。
そのため女性社員の入社は事実上の禁止になっていたのだ。
素性の知れない人物をきちんと見極める。
それがクリニックのため、ひいては自らが仕える政宗のためになると思っていた。
しかし実際の伊智子は小十郎の予想とは違っていた。
自分の容姿が一般的に優れて、好まれるのは自覚していた。少なくとも若い女性には。
それを利用し、伊智子に迫ってはみたが…全く気にしていないようで、逆にこちらが驚かされた。
無邪気に笑ったり謝ったり、一生懸命仕事に打ち込む姿はむしろ好意的に見えた。
それに…最後に名前を呼ばれるとは。なんだか自分が試されているような気になってしまった。多分、本人にはそんな気が絶対にないだろうが。
「……変わったお方ですね、全く」
小十郎は誰もいない廊下でそう呟いた。その顔は、なんだか清々としていた。
そして、一人になった伊智子は
「小十郎さんも笑うんだー」
なんてのんきに言いながら机の掃除をしていた。
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