おやすみなさいの忘れ物
「おーい、伊智子ー」
そこへ、遠くから声をかけられる。きょろきょろと周りと見渡していると、李典さんだった。
楽進さんと、張遼さんと3人で固まっている。
呼ばれたんだなと思い、「はい!」と小走りで駆けつける。
「先ほどはご立派な挨拶でしたね」
楽進さんにさっきのことを褒められてなんだか恥ずかしい。
「いえそんな…」
「ちょっとビビりすぎだったけどな。張遼の顔が怖かったんじゃないか?」
「む…そうだったか?」
謎の張遼さんイジりにギョッとする。
確かにいかつい顔だとは思うけど、別に怖いと思ったことは1ミリもない。
むしろ私を見つめてくる無数の視線のほうが怖かったよ…
「ち、違います!!そんなことありません!少し…緊張していただけですので!張遼さんは怖くありません!」
必死でそう言うと、張遼はポカンとした表情になり、李典はニヤニヤ、楽進はニコニコと三者三様の反応を見せた。
「よかったなあ、張遼」
「よかったですね、張遼殿」
「無理せずともよい、伊智子殿」
「いや無理してなんかいませんけど…」
なんなんだこの3人の謎の流れは。
張遼はコホンと咳払いをひとつして、きりっとした顔で伊智子に向き直った。
「伊智子殿。本日は疲れたであろう。早めに休み、また明日からもよろしくお頼み申す」
「…はい、お疲れ様でした。明日からも、よろしくお願いします」
そう言うと、張遼さんは満足げに頷き、
「では私はこれにて。お先に失礼」
と、自室へと戻っていった。
李典と楽進も足元に置いてあったかばんを拾い上げ、あー疲れた、と呟いた。
もう時刻は夜中1時をゆうに超えている。
「さー、帰るかー。楽進、タクって帰ろうぜ」
「はい!」
「伊智子は?一緒に乗ってくか?」
ここ、タクシー代も出してくれるからスゲーいいぜ、なんてにっこり笑っている李典に対し、伊智子はふるふると首を横に振る。
「いいえ、私…ここでお世話になることになったので」
そう言うと、李典と楽進はびっくりしたように目を見開いた。
「まじで!?へー、お前も大変だなあ」
「そうだったのですか…ここは退勤時間が深夜ですし。そのほうが安全かもしれませんね」
では、お先に失礼します。と言って二人は出口へと向かった。
帰っていく背中に向けて、伊智子は「あ、あの!」と声をかける。
「?どうしました、伊智子殿」
「なんか忘れもんか?」
わざわざ振り返って立ち止まってくれた2人にぱたぱたと近づく。
忘れ物といえば、忘れ物だろうか。
「あの…えっと…李典さん、楽進さん、あの…おやすみなさい」
伊智子はそれだけいって、頭をさげて、そのまま室内の奥へと走っていってしまった。
取り残された2人はしばらくその場に立ち尽くしていたが、
「…あー、俺、急に妹ができた気分だわ」
「奇遇ですね。私もです、李典殿」
そうぽつりと呟いて、楽しげに笑いながらタクシーを拾いに夜の街へと歩いていった。
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