修羅場
伊智子の3倍の食事をペロッと平らげた清正はだいぶ満足したらしい。
伊智子もお腹をさすりながらふぅと息を吐いた。
「あー美味しかったー。ごちそうさまでした」
「噂に違わずうまい店だった。おねね様の次くらいにな」
「あはは、そうですね」
笑いながら席を立った。会計はもう清正が済ませてくれていた。
タクシーの中でちらつかされた黒い財布ではなくて、清正さんのお財布で支払ってくれたみたいだった。
後ろからこっそり「…いいんですか?」と言うと、「新人に飯を奢るのは当たり前だ」みたいなことをゴニョゴニョ言っていた。
食事に来る前までとは大違いだ。伊智子は素直に嬉しくなった。
前を歩く清正と会話しながら出入り口まで歩いていると、急に清正が立ち止まる。
よそ見をしていた伊智子は思いっきり清正の背中にぶつかってしまった。
「痛っ!どうしたんで……」
なんで背中が岩みたいに固いんだ。低い鼻がこれ以上低くなったらどうしよう。
「……清正………」
「…………」
何事かと清正の背中からひょっこり顔をだす。
硬直する清正の目の前には、綺麗な女の人が怖い顔をして立っていた。
「清正。言い訳は聞かないわ」
凍りつくような声だった。聞き覚えのある声、これは……
「私が教えてあげた店に、別の女の子と来てる」
伊智子は急に背中に大量の汗をかいた。
清正は黙っている。何も言わない。
黙っている清正に対し、女性は通りかかったウエイターの持つお盆からお水をひったくり、そして…
「あ……!!」
「もうあなたには会いに行かないわ」
バシャッと勢いよくふりかけられた水。思わず伊智子も声がでる。
頭から思いっきり水をかぶった清正は、そのまま何も言い返さなかった。
女性を視界にもいれなかった。
「さようなら」
女の人がコップをウエイターに突き返し、長い髪を翻して店を出て行った。
後ろに立っていた男の人もそれを追いかけていったが、なんだかめんどくさそうな顔をしていた。
店内はしばらく唖然とした雰囲気に包まれていたが、そのうち店員の一人がタオルを持ってきて清正に渡そうとしたが清正はそれを拒否し、店を汚してすまないと店側に頭を下げて店を出て行った。
その時伊智子の手を掴んでいったものだから、伊智子も「あ、す、すみませんでした…!」と半分引きずられながら言った。
清正が手を離してくれない。
離してくれないと困るわけではないのだけど、容赦ない歩幅の差が結構きつい。
往来を歩いて、しばらくすると清正は「あ…悪い」と言って歩幅を狭めてくれた。つないだ手はそのままだけど。
まあ…別にいっか…。と思い、いくらか緩やかになった歩幅に安心して歩く。
「あの…水…寒くありませんか?」
「…ああ…大丈夫だ」
本当かよ。結構服もビシャビシャになってるけど。と言いたいのをグッと我慢する。
すれ違った人が結構な割合でギョッとしている。無理も無い。ただでさえ視線を集めやすい容姿の上、頭から肩にかけて思い切り水にぬれているのだから。
「…もうあのお店いけませんね」
「そうだな…」
美味しかったのにな、なんて軽口も言ってみた。
清正はその言葉にも、ああ、そうだな、とぼんやりした口ぶりで返した。
「あんまり残念そうじゃありませんね」
「ああ…そうだな」
また同じ答えだ。
もしかして、さっきの出来事が衝撃的すぎて頭がボーッとしてしまっているのではないか。
そう考えていると、清正が急に切り出した。
「実を言うとな」
意を決したような言い方だった。
清正は前を向いたままこちらを見ない。
「わざとお前をあの店に誘ったんだ」
清正は感情のないような、悲しいような、不思議な横顔だった。
なぜだかその顔から目が話せなくて、伊智子はじっと清正を見つめてしまっていた。
その視線に気づいた清正は小さく笑って、「店まで歩いて帰ろう」と言った。
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