いよいよ来店


クリニックMOに小早川隆景という新しい医師が所属して数日が経った。

暗い夜道にハイヒールの音を響かせて、例のお客様が来店した。

今日もつきまとい被害に逢ったのだろうか。走ってきたようで、少々息が乱れている。


「…ふう、今日はうまくまけた。あーもーウザイなぁ…」


少し汗をかいたようで、洋服の胸元をぱたぱたと仰いでいた。
被害に遭った直後だと言うのに、それほどおびえた顔をしていない。もう慣れてしまったのだろうか。

つきまといに慣れるってどういうことだ。
それならもう特別扱いも解除しても良いんじゃないか。
本当に苦しんでいる人に失礼ではないのか。

伊智子はそんなことを思いながら顔は控えめに微笑み、カウンターの中から一礼してお客様を出迎えた。

「いらっしゃいませ、おはようございます。ご予約はされておりますか?」
「してないけど。今日空いてる人いる?」

いつもお決まりの台詞を聞いた伊智子は「ただいま確認させて頂きます」と言ってパソコンを操作した。
本日出勤の医師のスケジュールを確認する。

「……本日は、そうですね…出勤の医師は皆予約で埋まっておりまして…今すぐ対応できる者は難しいかと」

今日はあいにく予約が多数入っており、今すぐに席につける医師を探すのは難しかった。
その言葉にわかりやすく落胆した様子のお客様は、カウンターに近づいて代わりはいないかと粘った。
そう思うんなら最初から予約してくればいいのにという言葉が喉から出かかったが、寸前で我慢した。自分えらい…。

「そんな〜、なんとかならないの?誰か一人くらいいないの?」
「う、うーん…そうですね…あ」

所属医師一覧を最初から確認する。すると最後にのっている写真の人物が目に入った。
予約を確認すると丁度次の予約時間までだいぶ余裕がある。

伊智子は視線をパソコンからお客様に戻し、かたわらのタブレット端末を取り出した。


「先日新しく所属になった小早川隆景という医師はいかがでしょうか」


タブレットにも同じ画面を表示して、お客様に提示する。
医師として働くようになって日が浅い隆景は知名度がまだ低いせいか、割と手が空いていることが多かった。それはお客様の多くが「お気に入り」と優先していることと、周知が完全でないことが理由だった。

もちろんホームページには載っているが、古参の医師に比べるとまだまだ予約の数は少ない。そのためこういった飛び込みの客に対して売り込みをするのも伊智子の仕事だった。

…と言うよりも、このお客様が来店したら優先的に自分を案内してくれとお願いされていたのをすっかり忘れてた。
趙雲、隆景、伊智子の3人で話し合いをしている時、こっそり耳打ちするようにして言われていたのはこのことだった。

……今日、たまたま他の医師の予約が一杯で良かった。


「若い方ですが話し方は非常に穏やかで、とても聞き上手ですね。ごらんのとおり、とても優しい医師ですので」


伊智子の言った台詞は決していい加減なことではない。
ここ数日隆景を指名した客が揃って言うのがこの感想だったのだ。
優しくて穏やか。乱暴な言動は一切なく、客に対してとても丁寧な対応をする。くわえて顔もすこぶる良い。
その評価は伊智子自身も、隆景と接していて実感していたことだった。

それを聞いた客は、タブレットを覗きこみながらふんふんと頷きながら、

「うん、わかった。この人にする。コースはいつもどうり「伊」でヨロシクね」

と、満足げに言った。どうやらお眼鏡に叶ったようだ。


手続きを終えるといつものように黒服が出迎えに来た。今日は趙雲…と、新人黒服の夏候覇も後ろについている。
いつものように趙雲は厳しい顔をしており、その後ろにつく夏候覇も緊張した面持ちだ。
……余談だが、夏候覇の考案した特製ドリンクは当たり前だがボツになり、おまけに食材を無駄にするなとがみがみ怒られたらしい。

「今日も2人来てくれたんだ、うれしー」

黒服2人で対応するという措置はこのお客様だけの特別対応だ。

しかし黒服2人の出迎えが面白くないのはその現場に立ち会っていた他の客。

「伊」「呂」コースの場合、たくさんのテーブル席があるホールに黒服がエスコートする。
その際、一人だけ黒服2人を連れて歩いていたらそれはもう目立ちまくるし、他の女性客は勿論気に入らない。

しかし皆大人であるため、何か事情があるということを感じ取ってくれたのでおおっぴらに喧嘩を売ったり、騒ぎを起こしたりすることはないのだが…
ホールを横切るとき、他の女性客が横目でちらりと睨みつける、くらいのことはあるようだ。

しかしそういう時、このお客様は決まって勝ち誇ったような顔をしているそう。

というのは、女性の機微に敏感な凌統や孫市からのタレコミだった。なんてこった。

しかしそれくらい、他の女性客の不満や鬱憤が溜まっているのは明白だった。


黒服2人にエスコートされ、気分が良さそうにホールへ歩いていくお客様。
三人の後ろ姿を伊智子は落ち込んだ気持ちで見ていた。

すると、それと入れ違いになるように他の女性客がやってきた。
たまたま帰るところだったらしい。なんだか機嫌が良くないように見える。
その女性客はバチッと音がするくらい勢い良く伊智子と目が会うと、荷物を持ち後ろに控える黒服を置き去りにしてツカツカと受付まで歩いてきた。嫌な予感がする。

そして受付の台をパンッと叩くと


「ねえ、あの女、最近見るたびになんなの?」


と不機嫌そうに言った。

「…すみません。理由は言えないのです。安全のため…としか」

と、困ったように眉を下げて言う伊智子。
その文句は非常によくわかる。でも、今は本当にこれしか言えないのだ。

伊智子の反応を受けた女性客は、顔色をパッと変え、顔の前で手をひらひらさせながら言った。

「あ、ワンちゃんに怒ってるわけじゃないの。ただ、「波」でもないくせに黒服を2人もつけるなんて厚かましいにも程があるでしょう。チラッとテーブルを見たらなんだかいつもガランとしているし…そんなんじゃ黒服の皆さんに迷惑じゃないのかしら?って思っただけよ」


あのお客様がいつも指定するコースはクリニックで一番料金の低い「伊」。
通常はそれにフードメニューやドリンクが色々プラスされるし、太っ腹な客はチップと称したお小遣いを医師に渡す。

しかしあのお客様に関してはチップは勿論、フードの注文が全く無い。
かといって、高いドリンクを頼むわけでもない。
一番安価なソフトドリンクで1時間とちょっと、まるで喫茶店で時間を潰す女友達のようにただしゃべり倒していくのであった。

一応クリニックの名誉として入っておくが、利用料金が低いからといってぞんざいな扱いをすることは絶対にない。

しかし、特別扱いを受けている手前、このような意見が出てくるのは当たり前のことだったのだ。
それは周りの目を考慮しなかったクリニック側の落ち度でもある。伊智子は深々と頭を下げた。

「不快な思いをさせてしまって、申し訳ございません…。一時的なものですので、どうかご了承ください」

「…ワンちゃんがそう言うなら…でも、なんとかした方が良いわよ。…結構不満持ってる人、多いから」

女性客は穏やかじゃないことを呟きながら、なんだか納得しきれない様子で帰っていった。
彼女についていた于禁もチラリとこちらを見た。その目には「またか」という風な色がありありと浮かんでいた。

実際こういったクレームはどんどん増えている。
特別扱いをすればするだけ当然他の客は面白くない。受付の伊智子や蘭丸に対しても勿論、医師にも黒服にも不満の声は届いていた。

医師は恋人じゃないし、友達でもない。対価を払った分だけのサービスを受けているだけ。
そう割り切らなければいけないはずなのに、一人を特別扱いするだけで平等だった客の均衡が乱れてしまう。

「……ハア」

どうすればいいんだろう。
このままでは先ほどの女性客のような不満がどんどん出てくるだろう。

常連は離れ、評判も下がり、売上げが減り、伊智子のような末端へっぽこ新米平社員なんか真っ先にお役ご免だ。


…隆景は、あのお客様を自らお相手したいと言った。
それはただ単純に興味からだろうか?それとも、なにか現状を打破する秘策でもあるのだろうか?


「…………」


伊智子は不安でいっぱいになってしまった。
だが、その後やってきた多数のお客様の対応に追われることとなり、その時だけは嫌なことを忘れることができた。
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