エスコートは王子の仕事

あのお客様が来店して、一時間はゆうに過ぎた。

そろそろ席を立つころだろうか…と思っていると、先ほど聞いたハイヒールの音がホールのほうから聞こえてきた。本日も、いつもどおりきっちり15分オーバーである。
半分諦めたような顔で音のする方向に目をやると、まさかの光景に伊智子はギョッと目を剥いた。

なんとお客様の隣には、普段ならばありえない人物が寄り添っていたのだ。

伊智子は驚愕のあまり、視線をそちらから動かせずにいた。
その視線に気付いたお客様が、何故か得意気な表情で伊智子に話しかけた。


「なんだかこわいから、玄関までついてきてもらっちゃった。ね、隆景さん」

「ええ。お客さまのご要望とあらば」


お客様はたわわな胸を隆景の腕に押しつけ、うっとりした表情で隆景の顔を見ていた。
満更でもなさそうな隆景は薄く微笑んで、お客様の肩を抱いて「それに、」と続けた。


「お客様のお話を聞いたからには、椅子に座ってお見送りなど…とてもできません」


熱っぽい視線を向けた隆景がお客様の手をギュッと握る。お客様も、握られた手をそっと握り返した。
診察はとっくに終わっているはずなのに、二人の間にはえもいえぬ雰囲気が漂っていて、後ろに控える趙雲はお客様の鞄を持ち、空気のように無表情で立っていた。


「え、ええ………?」


伊智子はどん引きした表情で二人を見ていた。

医師と客は、時間がくれば会計のあと席で別れ、黒服が玄関までお見送りをするのがマナー。

規則として決まっているわけではないがそれが暗黙の了解としてずっとやってきた。
隆景がそのマナーを知らないわけはないだろう。三成のスカウトだとすれば、決まりごとはきちんと教えられているはずである。
それに今日、このお客様についているのは趙雲だ。問題があれば先にそちらから注意があっただろう。

当の趙雲が何も言わず静かに後ろに控えているということは、今この状態について問題はないのだろうか?

伊智子がそんなことを思っているとも知らず、お客様は更に隆景にしなだれかかった。


「…あたし、隆景さんのこと気に入っちゃった」


ぱちぱちと瞬きを繰り返す。重ねられた付け睫がまばたきのたびにゆれた。


「それは嬉しい。ありがとうございます…さあ、お出口までお見送り致しましょう」


隆景がお客様の手をとってゆっくりとエントランスの中央まで歩き、玄関へと向かった。
その間もお客様は熱に浮かされたように隆景の顔ばかり見つめていた。

「…嬉しい、隆景さんってなんて優しいんだろ。ほかの人はそんなことしてくれなかったのに」

当たり前だろと伊智子は心の中で毒づいた。


「おかわいそうに。不審者に不安な思いを抱えているのでしょう?これくらいさせて下さい…」


そう言って隆景はお客様のあごをそっとすくった。
少しだけ身長差のある2人の視線が絡まって、しばし無言の時が続いた。
おいおい、ちょっと待て。今ここでぶちかますんじゃないだろうな、ていうかもう時間過ぎたんならさっさと帰ってほしいんだけど。

伊智子は2人と趙雲とを交互に見つめる。
当の趙雲は違う世界に行ってしまいそうな2人のことは気にも留めず、なにやら厳しい表情でガラスのむこうを睨んでいた。目の前にもっと厳しく睨みつけるべき対象があるよ…。

「お客様…」
「あ、隆景さん…」

2人の顔がゆっくりと近づいていった。隆景がすこし顔を傾けて、今まさに2人はくちびるをくっつけてしまいそうな距離にまで近づいた。お客様もポッと頬を赤らめて目を閉じてしまっている。
趙雲はかたくななまでに2人を視界に入れようとしない。伊智子は今すぐに気絶したくなった。

その時だった。



バンッ!!!!




「!!!!!」



静かなエントランスに似合わない大きな音が響いた。その音はすさまじいもので、ビリビリとした振動さえ体に伝わってくるようだった。
それは恐らく屋外から響いてきたもので、その場にいた全員はガラスの向こう、同じ方向を向いた。


「………あっ!?」


伊智子は眉をひそめた。玄関の外にスーツ姿の、誰か見知らぬ男が立っている――…

しかも、このあいだせっかく綺麗に磨いたガラスにあんなにしっかり指紋つけて。
伊智子は思わず悲鳴をあげそうになったが寸でのところで思い留まり、とりあえずはいきなり現れた不審者に対応するべく手の空いている黒服を呼びに行こうと腰をあげた。

すると目の前の趙雲がこちらに向かって「そのままで」と目配せした。
え、と思って顔を見ると、趙雲は小声で「ここは私と隆景殿に任せておけ」と言ってどこへやら走っていってしまった。

「あっ…趙雲さん!どこへ…」
「きゃあっ!!あ、アンタ…」

「!!」

趙雲を呼び止めようとした伊智子の言葉を、甲高い女性の悲鳴がさえぎる。それは紛れもなく、目の前の女性客のものだった。
伊智子と趙雲がやりとりしていた一瞬の隙に不審者は自動ドアを通過して、エントランスの中心にまでやってきていた。

不審者の見た目はごく普通のサラリーマンといった風体だった。
しかし鬼気迫る表情と、振り乱した髪、汗だくの姿が正常な状態ではないということを物語っていた。

ハアハアと荒い呼吸を繰り返していた男だったが、おびえたお客様が隆景の腕に抱きついたのを見て興奮したように怒鳴った。


「お前っ!!!……やっぱり浮気してんだな!!!このクソ女っ!」


つばを飛ばしながら放った怒号は、エントランス中に響き渡っていた。
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