世界一つよい本
男が走り去った後、趙雲が静かに槍を下ろした。
先ほどまでは明らかに本物のような輝きを見せていた槍が、もはや作り物にしか見えなくなったのが不思議だった。

しばしエントランスは静寂に包まれたが、ふいに隆景にしがみついたままのお客様が泣きそうな声で言った。


「ああ…!怖かった!そう、あの男が…ずっと私を…」

腕だけに飽き足らず、お客様は隆景の体にひっしとしがみついた。
その体は泣いているのかかすかに震えている。
しかし隆景は先ほどまでの優しさはどこへやら、その薄い肩を抱きとめたり、抱きしめ返したりはしなかった。

それどころか、その背中には「そなた、」と厳しい言葉がかけられた。


「今すぐ隆景殿から離れられよ」
「…え?」


趙雲の声だった。趙雲はお客様をじっと見つめていて、その視線には明らかな怒りが含まれていた。
その視線にひるんだお客様は更に隆景に張り付いたが、隆景の対応は相変わらずだった。
ぴくりとも腕をまわしてくれない隆景を不思議に思ったお客様は怪訝な顔をするが、続けて降ってくる趙雲の強い言葉に表情を凍らせた。


「痴情のもつれを持ち込み、事態の解決を求められてもはぐらかし、当クリニックの従業員をトラブルに巻き込んだ。今回のことは、全てあなたの優柔不断で移り気な心が巻き起こしたことです」

「……っ」

「毎回飛び込みで来店するのも、ただ単純に話をいちから聞いて欲しいだけ。2回目以降になれば、少なからず対応や改善策を求められるでしょうから。そなたにはこの事態を解決する気などほとほとなかったのでしょう。真、はた迷惑な話です」


お客様は隆景と趙雲を交互に見比べた。その顔は、早く私を慰めてよ、私の味方をしてよと言っているようだった。
しかし隆景は趙雲のほうを向いてお客様のほうを一度たりとも視界にいれない。

趙雲の言い分は冷たくはあるが至極当たり前のことで、伊智子も心の中で大きく頷いていた。


「かわいそうなご自分を慰めてもらうのは、さぞご気分が宜しかったでしょうな」


お客様は図星のことを言われ、とうとう目に涙を浮かべてしまった。

「イヤ、隆景さん、この人怖い…」

隆景にしなだれかかる。かたくなまでに自分のほうを見てくれない隆景にしびれをきらしたのか、顔をぐっと近づけて無理やり口づけをしようとした。

「っ、」
「ちょっ…」

趙雲はおろした槍を握り直し、伊智子はつい腰を浮かしかけたが、他の者がアクションを起こす前に隆景がお客様の肩を思いっきり掴んで引き離した。

「えっやだ…なんで?隆景さん、さっきまで、あんなに…」

隆景の対応の変わりように驚きを隠せない様子のお客様は、戸惑いのあまり目が泳いでいる。
そんなお客様とやっと視線を合わせた隆景は、びっくりするほど美しい笑顔だった。



「男が優しい顔ばかりではないのは、あなたが一番よくわかっていると思いますが」



隆景が女性の顔を覗きこみながら静かに言った。

女性は顔を青くしてガタガタ振るえだし、小さい声で「ごめんなさい」と繰り返した。
隆景は表情を変えなかった。今はその笑顔すら恐ろしく感じるのだろう。
隆景からゆっくり離れ、ごめんなさい、ごめんなさいと良いながら後ずさった。

その背中を後ろに待ち構えていた趙雲が支え、腕を掴まれるとお客様はとうとう静かになった。

お客様は、趙雲に腕を引かれて奥へと連れて行かれていた。
今後、このお客様にどのような対処がなされるかは伊智子にもわからない。

趙雲に腕を引かれ、背中を丸めて歩くお客様の後姿を伊智子はぼんやりと眺めていた。
そこへ隆景の優しい声がかけられる。


「伊智子殿。大丈夫ですか?」


受付スペースに入ってきた隆景は、いつもどおりの穏やかな表情をたたえていた。

「隆景さん…」

「もう大丈夫ですよ。安心してください」
ポンポンと頭をなでられる。

なんだかその顔を見るとやっと安心できて、どっと疲れたような気がする。
私、何もしていないのに…。ただ横で見てただけなのに…。

「恐ろしい思いをさせましたね」

隣の椅子に座った隆景は伊智子の頭をなで続けながらそう言った。

隆景や、趙雲のほうが当事者なんだから、ずっと怖い思いをしたに違いない。
それなのに、横でずっと見ていただけの自分を気にかけてくれるなんて本当に隆景は優しいと伊智子は思った。



「ねえ、なんかすごい怖い顔して趙雲が歩いてたけど、何があったんだい?」

そんな中、この場の雰囲気にそぐわないのんびりした声がした。
背後の扉からぬっと顔を出したのはこのクリニックの事務長、毛利元就だった。休憩室の冷凍庫からちょろまかしたのか、小さな棒アイスをくわえていた。

「元就さん」
「父上」
「やあ、隆景。…と、伊智子。どうしたんだい、2人そろって」

もしかしてお邪魔だったかな。なんて冗談を言う元就は、名字こそ違うが血の繋がった隆景の父親だった。
事務員は通常17時で定時退社するが、元就はやることがあって今の時間まで残業をしていたようだった。

不思議そうな顔をする元就に対し、隆景が事のあらましをかいつまんで説明した。
すると元就はへえ、と関心したようにあごを撫でながら

「それじゃ、やっと解決したんだね。これで一件落着、よかったよかった」

と、嬉しそうに笑っていた。
隆景もにっこり笑って頷いている。伊智子もつられて笑顔になった。

「…ん?」

すると元就の視線がある一点で止まった。
それは隆景の胸元を見つめているようで、伊智子も何事かとそちらを見ると上着の内ポケットから半分だけこぼれた本が顔を出していた。
それは紛れもなく、先ほど男の横っ面を思いっきりぶっ叩いた本だった。よく見れば辞書ほどの厚みがある。なるほどこれで殴られればものすごい音がするはずだ。

その存在に気付くや否や、元就はアッと声を上げる。
反対に隆景は気まずそうな表情をかすかに浮かべていた。


「隆景…それ、私の本じゃないか!まさか、殴ったっていうのはこの本かい?」

「…申し訳ありません。父上の本が一番文字量があって分厚く、強そうだったので…」

「ひどいことするね。全く…返しなさい、ほら」
「ああっ」

伊智子は目の前で巻き起こる親子のやり取りをぼけっと眺めていた。
元就が取り上げた本を、隆景は名残惜しそうに見つめている。

自分に対して、いつも頭を撫でてくるばかりであんなにおじいちゃんみたいな元就も、はたまた常に優しく穏やかな表情を崩さない隆景も、お互いを相手にしているとごくふつうの「父と子」のようで、なんだかすごく良いなぁと思った。

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