晩御飯は親子丼


稲様は回を重ねるごとに「伊」から「呂」へ段階を踏んでいった。
そして今日…初めて「波」を指定していたのだ。
そこへ踏み出すまで、きっとたくさん悩んだだろう。たくさんの勇気が必要だっただろう。

それもひとえに信之さんへの気持ちがあったからこそ。
そんな純粋な気持ちに伊智子も癒される。

稲様は黒服に連れられ、いつものホールへ向かう道ではなく、ひとつ上のフロアに行くためにエレベーターに乗る。

「波」専用の個室があるフロアに向かうのだ。

少し緊張した様子の背中を見守る。

その後幾人かのお客様を対応した後、伊智子は休憩のため奥へと引っ込んだ。





休憩室で親子丼をむしゃむしゃ食べていると「お疲れ様です」と向かいに幸村が座った。
今日はご飯も上にのせる具もセルフのため、伊智子と幸村のどんぶりの量は倍近く違っていた。

「幸村さん大盛り」
「ねね殿の食事はとても美味しいですから」

つい食べ過ぎてしまいます。と照れたように笑う幸村。
いただきます、と手を合わせて箸をとった。どんぶりによそう量が多い幸村は、一口も多い。
口いっぱいに親子丼をほおばる様子を見ているとなんだか気持ちが良い。自分もあんな風に食べられたらな。
そんなことを思っていると、ふいに幸村が伊智子の顔を見て「おや」と言った。

「伊智子殿、米粒がついておりますよ」
「あ…本当ですか…ん?どこ?」
「こちらです」

幸村はトントンと自分の口元を指差して笑う。それを見て伊智子も自分の口元の同じ場所に指を添えると、たしかに米粒の感触があった。
それをつまんで、ぱくっと口にいれる。この年になってまでおべんとつけちゃうなんて。

「私、小学生みたい。はずかしい」
「恥ずかしく感じることなど。伊智子殿はとても可愛らしいですよ」
「か、可愛い……?」
「ええ」

きっとその「可愛い」っていうのも、小学生みたいな、小さな子供を見て思う感情なんだろう。
年齢的に考えて仕方が無いけれど、ここの人たちは本当に自分を子供扱いしてくる。
私だってもう18歳なのに。そんな気持ちを込めて、じろっと幸村を睨んだ。
しかし伊智子の睨みなんて幸村は子犬の威嚇にしか見えないのだろう。きょとんとした顔でこちらを見てくる。

なんだか自分が馬鹿らしくなって、なんとなく話題を変えてみた。


「…幸村さんって、可愛いお客様とかを見ると好きになったりとかしないんですか?」

「……好き、ですか?」

まさかそのような質問が飛んでくるとは思わなかったようだ。
自分でも無理やりだなと思う。

そんな質問に対しても、幸村は口元に手をあて、ウーンと真面目に悩んでくれていた。


「そのようなことは…考えたこともないですね。恐らくここにいる全員、分別はついていると思いますよ」

「…ですよね」

幸村の返事は想像どうりだ。


「万が一お客様にそのような感情をもつ、またはそのような関係になるのならば、ここでは仕事ができなくなるでしょうね」


幸村は厳しい表情をして言った。

お客様がこちらに恋愛の情を持ってしまうのは仕方のないこと。
しかしその逆は許されない。ここで働くものは皆、業務としてお客様と接しているだけ。
診察の時はそのように接する必要があるが、時間がきたらそれは終わり。

それに恋愛の情が入りこんでしまえば、本人がどう頑張ってもフェアな対応はできなくなるだろう。

それに、女性は感情の機微に敏感な生き物である。

もし自分のお気に入り医師が、他の女性客に恋をしている。もしくは、恋愛関係にあると気付いてしまったら。


悲しい結末しか生まないだろう。だから、このクリニックにある数少ない規則として、お客様との恋愛は断固として禁ず。というものが存在するのだ。


「しかし、なぜいきなりそのようなことを?」

「え、いや、えっと…なんとなくです」

幸村の質問に伊智子は目を泳がせた。残ってる親子丼をかきこむ。
幸村の手元を見ると、もう既にどんぶりは空だった。食べるのも早いらしい。

「まさか…伊智子殿」

幸村はハッとした様子で口元に手をあてた。



「伊智子殿は女性がお好きなのですか?」

「ぶっ」


幸村があまりにも真剣な表情で言うものだからごはんを噴出しかけた。
寸でのところでとどまって、ティッシュを手にとり口元を拭う。


「ちっ、違いますよ!!違う!私は男の子が好きです!…多分」


「多分とは?」

まだこの話を続けるつもりらしい。
伊智子はどんぶりと箸を置き、お水を一口飲んで言った。


「…私、まだ彼氏もいたことないし、好きな人も今、いないし。それに、誰かを好きになるのに性別は関係ない…と思うから、です」


なんでこんな恥ずかしいことを暴露しなければいけないんだろう。
なんとなく幸村と顔を合わせづらくって、視線を反対方向に向けていると、隣から優しい声が響く。

「そうなのですか…私も似たようなものです」

「幸村さんも?」

パッと幸村のほうを向くと、幸村は穏やかな顔をしていた。


「私は今の生活に満足しておりますゆえ、恋人のことなどは考えたことはありませんが…いずれそのような相手と出逢うことができれば良いなとは思っています」


彼氏ができないとか、恋がどうだとか。
今の時点でうだうだ考えていても、仕方のないこと。
そんな考えを肯定されたみたいで、伊智子はなんだかすごく安心してしまった。


「…そーですね。私もそー思います。今は別にそういうの全然…なんか興味ないですねえ」

「ええ、全く持って、同感です」



「……お前ら、そんな年齢で何枯れた発言してるんだ?恋しろよ、恋。老けるぞ」


いつのまにか換気扇の下でタバコを吸っていた孫市は、二人の会話をずっと聞いていたらしい。

孫市がしびれを切らしてつい口から出た言葉に、幸村と伊智子は「はぁ…」と、わかってるんだかわかってないんだか微妙な反応を返した。

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