思いがけない事件

孫市はタバコをもう一本吸うと、ホールに戻っていってしまった。

伊智子もどんぶりを空にして、幸村と2人で食後の一服をしていた頃。

受付側とは反対の、休憩室奥の扉が開き、とある人物が顔を出した。


「幸村はいるか」

「兄上」


信之だった。伊智子はさりげなく時計を見る。
稲様がここを訪れてからちょうど一時間は経った時間だった。
もう診察は終わったのだろう。

信之は妙に緊張した顔つきをしていて、声をかけられた幸村も表情が固くなるし、つられて伊智子も背筋を伸ばした。

「どうかなさいましたか」

「…めんどうなことになった」

信之はきょろきょろとあたりを見回して、休憩室には自分たちの他に誰もいないことを確認すると、ずかずかと乗り込んできて伊智子の隣へと腰を下ろした。

なんとなく聞いてはいけない話が始まりそうな気がする。
伊智子がそうっと腰をあげると、信之が「待て」と言った。えっ。

「伊智子も聞いてくれ。お前も知っている方のことだから」

「え…あ…はい。わかりました。あ、じゃあ…えっと、お茶、つぎます。」

「ああ、そうだな。頼もう」

兄弟同士の秘密の話が始まるのかと思ったら、自分もこの場にいていいらしい。
しかも、話の内容は伊智子自身も知っている人のこと…?

まさか従業員同士でなにやら問題が起きたのだろうか。

いやまさかな。

自分と幸村のお茶を注ぎなおし、新たに信之の分もお茶をいれる。

用意をしている間、背後の2人は一言も言葉を発していなかった。

それが更に事態の深刻さをあらわしているようで…正直聞きたくない気持ちのほうが大きい…。



「どうぞ」
「ありがとう」
「伊智子殿、ありがとうございます」
「い、いえいえ…遅くなってすみません」

それぞれの前にゆのみを置いた。
いれたてのお茶は熱そうな湯気をたてていたが、信之はなんともないようにそれを持ち上げ、一口飲んで、息を吐いた。


「…………実は、」


信之がゆっくりと語り出す。
やがて伊智子と幸村はお茶を飲むのも忘れる程、信之の話に聞き入ってしまっていた。












その日の終礼。信之が皆の前に立ち、神妙な面持ちで言った言葉は、その場にいた全員の表情を変えた。


「先日つきまとい問題が解決したばかりだが…本日お客様より、また新たな事件の相談があった」

一瞬でホールの空気が変わった。
ざわめきがホールをつつみ、その異様な雰囲気に伊智子は肩をすくめた。

そして伊智子の視界の端で、趙雲と隆景が視線をギラつかせたのを見てしまった。

「なんと。もしや先の件のような不審者がまた…」

「いや、違うんだ。今すぐにどうこうする話ではない」

バッと身を乗り出した趙雲と、その背後で静かに上着に手をかけた隆景。
臨戦態勢に入るのが早すぎる。

そんな2人を制し、なんだか意味深なことを言った信之は改めて皆に向き直る。
ホールの従業員たちも、真剣な表情で信之の次の言葉を待っていた。




「これはまさしくストーカーのたぐいだ。ゆえに、皆に…特に黒服に頼みたいことがある」



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