兄の意外な姿



次の日の昼下がり。
伊智子は玄関先のはき掃除をしていた。

今日も天気が良い。じんわりと額に浮かんだ汗をぬぐった。



あのノートをとり始めて1週間とちょっと。
このあいだ、ノートの記録を元にストーカーは2人いるのではないかという推察にいきついた。

何故かというと、ノートには見かけた不審者の特徴も書く必要があるのだが、そこには全く特徴の違う二人の人物が描かれていたからだ。

一人は身長はふつうで、体系が小太りな男性。顔の特徴まで詳しく記したものがあったが、どことなくタヌキっぽい顔つきで年齢は60代ぐらいとの見解だった。

もう一人はとても大柄な男性で、筋肉質。背丈も大きく、2人ともスーツを着ているのだが、こちらの人物に至ってはスーツが窮屈そうに見える程の体格だ。年齢は先ほどのタヌキっぽい男と比べると一回りほど若く見えるとか。


「…でも。そんな人、実際にこのあたりにいたらすごく目立ちそうなんだけど」


いくつもの高層ビルと多くの飲食店、少し進んだ先には歓楽街。そんなどこにでもある街並みに、まあ小太りのおじさんはギリ背景に溶け込むかもしれないが、筋骨隆々のスーツおじさんなんていたら目立って仕方ないだろう。


不審者の2人がひそんでいるのは大体、ビルの前にある植え込みの影か、電柱の影。どちらも思い切り姿が見えるのだが、本人達は隠れた気になっているのかもしれない。
だいたい姿を現すのは夜だから、ビルの窓からもれる明かりでシルエットが思いっきりのびているのだ。
たまに道路をはさんだ向かい側の路地裏からこちらを伺っていることがあるらしいが、どちらにしても怪しいことこの上ない。

「どうにかならないかなぁ…」


伊智子は掃除の手をぴたっと止めて、昨夜の終礼のことを思い出していた。








ノートの記録を頼り不審者は2人いると発覚したことが従業員全体に知れ渡ると、辺りは騒然となった。

そのざわめきの中、ひときわ大きな声で発言する男がいた。

「一週間見張ってあちらさんがこっちに危害を与えるつもりはないのは分かった。だがよ、毎日毎日ああもジィっと監視されてっとこっちも客商売だ、悪影響ってモンがあんだろ」

「特に大柄で筋肉質の男。あれの目つきは確実にこちらを威嚇している。業務妨害で通報しても良いと思うのだが」

甘寧と于禁だった。
物事の収束のため、というよりも、こちらをおちょくるようなやり口にもういい加減堪忍袋の緒が切れたと言うような、そんな感じだった。

そんな2人の言葉を聞いて、まとめ役である三成が眉間のしわを深くした。
一応物事の決定権は全て三成にあるので、この男が是と言わない限りクリニックに関することは実行できない。

その場にいる全員が、三成の次の言葉を待っていた。


その時だった。




「少し待ってくれ」




しんと水を打ったような静けさのなか、その声はいやに響いたように聞こえた。
その声の主は誰だったか。三成ではない。誰もがきょろきょろと辺りを見回している。


人ごみのなかから、一人の男が歩み出てくる。


「兄上……?」


幸村の小さな呟きは周りにいた数人にしか聞こえないくらいの声だった。




「すまない。皆には迷惑をかけている…本当に申し訳なく思っている」


中心まで歩み寄った信之は、申し訳なさそうな顔をして全体に頭を下げた。


「元はと言えば、私がことを穏便に済ませたいと、その一心で皆にノートの記録を頼んだのだ」


「ええと…済まない。ひとつ質問してもいいかな?あのノートをとって、君は一体どうするつもりだったんだ」

集団の中からひょろっと手をあげたのは徐庶。
素朴な疑問を信之に投げかける。それを聞いた信之は真面目な顔をして、ゆっくりと頷いた。


「皆は本当に事細かに記録をとってくれた。実は…明日にでもあれを持って、不審者に接触しようと思っていたんだ」

「えっ!!」

それまで壁に寄り添って静かに話を聞いていた伊智子も思わず声をあげてしまった。
今度はこちらに全員の視線があつまる。
伊智子はサッと顔を伏せて「すみません、話を続けてください」と言った。


「信之殿自ら接触など、危険極まりない」

張遼が言った。三成や他の従業員も、厳しい表情で頷いた。伊智子もまた、同じ気持ちだった。

今回のストーカーは、おそらく稲様をターゲットにしているはず。
その稲様の指名を受けている信之。ターゲットの怒りの矛先となるのは、口にせずともわかること。

信之はふるふると首を横に振ると、全体を見回しながら言った。

「わかっている。だが、私は本気だよ。これを警察に突き出されたくなかったら、下手な監視は金輪際やめてくれと直談判するつもりだ」

「そのようなこと、俺が許すと思ったのか」

三成の眼光が鋭く光る。
従業員の行動は全てこの男の管理下にある。
その三成が許さないと言ったことを無理やり実行しようとすれば…今後の進退にも関わってくることだろう。

信之はふっと笑った。

「まさか。私の独断だ」

「信之…勝手なことをすればどうなるか分かっているとは思うが」

信之をじっとり睨みつける三成を、背後の張遼が「三成殿、」と諌めた。


「皆、もうノートは十分だ。今まですまなかったな。ただ警察沙汰にする前に、一度だけ私に機会をくれないか。最悪のことがあれば、全責任は私がとる」

「勝手なことを言うな。責任をとるのは俺の役目だ。そして、そうならぬようにするのも俺の務めだ」

信之の肩をつかみ、無理やり目線をあわせた三成の視線は鋭い。
そんな三成の視線をいともたやすくかわし、肩にくいこむ手を振り払うと、信之は完璧な微笑みとともに一礼をし、颯爽とその場から立ち去った。

信之の背後から「信之!」と三成の大きな声がする。
それでも信之は歩みを止めない。ざわめく人々の間を縫って、ただ目の前だけを見ていた。

そのまま自室に戻るつもりだろうか、階段を上ろうとしたところで、三成ではない人物が信之の背中に声をかけた。


「兄上」


信之はこの声には反応を示し、歩みをとめ、ゆっくりと振り返った。

「なんだ、幸村」

「兄上、何ゆえあのようなことを…」

幸村の言葉は信之を非難するようなものではない。
ただ理由が知りたいだけ。
いつもの信之からしたらありえない行動。だけど、それには必ず理由がある。絶対に、みんなが納得してくれるだけの理由があるに決まっている。
だから、それをここで言ってくれれば、なにもあんな喧嘩みたいなことしなくても良かったのに。

幸村の子犬のような目がそう語っているように見えたのか、信之は少年のように歯を見せて笑った。


「どうだ、驚いたか?この信之にも、お前の頑固なところがうつってしまったようだ」


それだけ言って、こんどこそ階段を上っていった。


「兄上……」


信之の背中に、幸村の声は届いたのだろうか。信之は振り返ることなく、階段の奥へと消えていった。
三成も非常に機嫌が悪そうにその場を後にし、その背中を左近がのんびりと追っていったのが見えた。

その日の終礼は結局、うやむやなまま解散となった。


ただ一人、幸村だけが、信之の消えていった階段のむこうをずっと、ずっと見つめていた。

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