25


約束の日


山崎君の言った"明日"。

「どうしよう…。」

それはあっという間に来て。
私は動く足を無理に動かせず、部屋の真ん中で座り込んでいた。

着替えも、
隊士として働いていた時よりも綺麗な格好をして。

あからさまに"余所行き"の私は、そこへ向かう準備は出来ているのに。

「行けないよ…、やっぱり。」

窓の外にあるその場所に、
どうしても足が向かわなかった。

そろりと窓の外を覗けば、そこには珍しく静かな屯所。
土方さんの姿も、縁側にはなくて。

「…、どうしよう…。」

堂々巡りの悩みを、私は何度も口にした。

『それなら今日のお礼、明日にでも屯所に言いに来てください!』

山崎君が、あんなに必死な様子で言った。

『副長に言ってないでしょう?!だから!!』

確かに、
私は助けてもらったのに、お礼の一つも言ってない。

『助けてもらったんですから当然ですよね?!』

その言葉が浮かんだのと同時に、
私は折り曲げていた足を伸ばし、立ち上がった。

「お礼は…言わなきゃ…だよね。」

この先、
彼と関わることがなくなっても、
真選組と関わることがなくなっても。

人としての道理を済ませておかないと、
いつまでも思い出してしまいそうな気がした。

不気味なほどに静かな屯所に接する窓を閉めて、

「お礼…だけ。」

私は自室を出た。
いつもの甘味屋での団子を手土産に。


屯所の立つ通路まで来れば、
すぐ先に隊士2人が門の前で見張りをする姿が窺える。

「…。」

引き戻したい足を、
私は意を決して、その道へと進めた。

組織を抜けた者が、そこへ立ち寄るのは心苦しい。

色んな複雑に絡まる思いが、そこで交差して見えるから。

出来れば立ち寄りたくない場所だったのに。

「あっ!早雨じゃねェか!?」
「お久しぶりっスねぇ〜!」
"さ、どうぞどうぞ!"


私は気苦しいと感じていたことすらも忘れるほど、スルスルと中へ通された。

背後に「ごゆっくり〜!」という隊士の声を聞きながら屯所の庭を歩く。

「ほんと…、久しぶりだな…。」

大して時間なんて経っていないのに。
そんなことを口にする自分に、小さく自嘲した。

「あっ、紅涙さ〜ん!」

少し先にある玄関から、
口元に絆創膏を貼った山崎君が手を振って走ってきた。

「来てくれると思ってましたよ!」

私はそれに困ったように笑って、会釈をするように頷いた。
「中へ」と案内されて、私は建物の中へと足を踏み入れた。

歩き慣れた廊下を歩き、
見慣れた隊士が「久しぶり」と声を掛けてくれた。

それでもその隊士たちはまた、ドタバタと足早に去って行く。

「今日は何かあったの?」
"みんな忙しそうだね"

先導する山崎君の背中に声を掛ければ、彼は苦笑した。

「実は今日、張ってた相手が動きまして。」
「攘夷浪士?」
「いえ、クスリの方で。」
"密輸です"


私は「あぁ…」と声を出した。
山崎君は「実は」と言った。

「紅涙さんに来てもらったのに、副長も出ちゃってまして…。」

その言葉と一緒に山崎君は「すみません」と言った。
だけど私の気持ちは半分半分だった。

安著と、
残念な気持ち。

私は「こんな時だしね」と言った。

「それじゃぁ出直そうか?」

土方さんへ伝えに来たのに、居ないのでは意味がないだろう。

私が山崎君に言うと、
彼は「いえ!」と土方さんの部屋の前で言った。

「すぐに戻ると思いますんで!」
「でも今日は忙しいでしょう?」
「いえ!どうにか帰しますんで!!」

必死な形相で私に言って、
主のいない部屋の襖を開けた。


シンと静まり返るその部屋。

染み付いたヤニの匂いだけが、土方さんの部屋だと裏付けていた。

「帰って来るまではここで待っていていただけますか?」
"お願いします!"

また土下座をしそうな山崎君に私は小さく笑って「分かった」と頷いた。

それを聞いた山崎君は「ありがとうございます!」ととても気持ちの良いお礼をして、「じゃ僕も行ってきます!」と部屋を後にした。

静かに襖が閉まれば、
完全にこの部屋には私が1人で。

「相変わらず…、ヘビーだなぁ。」

部屋の中をゆっくりと見渡した。

灰皿の上には乗り切らないほどの煙草の屑と灰。
束で置かれた書類は端に寄せられ、転がるように置かれた筆。

黙って見ているだけで、


『紅涙、分かってんのか?』


土方さんの声が聞こえてきそうだった。

何も変わらないのに。
何も進んでないのに。

私だけ、
どこかへ落ちてしまったんだ。


「失礼します。」


その声でハッとして、
私は襖の外に聞こえる声に「はい」と返事をした。

スっと開いた先には女中さんが居て。

「お茶をお持ちしましたよ。」

頬むその女中さんは、私にも馴染みのあった一番長い女中さんで。

私は彼女の顔を見て、「あ!」と声を上げた。

「お久しぶりです!」
「久しぶりやねぇ紅涙ちゃん。元気にしてたかい?」
「はい、お陰さまで。」

私も笑えば、女中さんも笑った。

女中さんは何も聞かなかった。
私がどうしてここに来たか、知らないはずなのに。
普通なら、知りたいはずなのに。

その理由は、
すぐに分かった。

「今日は副長さんに会いに来たんだってねぇ。」
「え?!ど、…どうしてご存知なんですか?」
「ふふ。実は昨日にねぇ、それはもう今までにないほど大声が聞こえて、」

女中さんはお盆を持ったまま、「あれは本当に凄かったのよ」と笑った。

「何事かと思って、お茶を出すついでに見に来てみたのよ。」
"ほら私、野次馬やから"

プッと笑った女中さんを見て、私も同じように笑った。

「そしたらね、山崎さんが口から血を垂らしながら正座してて。」
「え?!」
「私が"お茶です"って部屋に入っても、まだ手を上げてねぇ。」
"見るに見兼ねて、休憩しませんか?って声掛けちゃったほどよ"

私はその言葉に先ほどの山崎君を思い浮かべた。
そう言えば、口元に絆創膏を張っていた。

あれ、土方さんにやられたんだ。
そして同時に、首を傾げた。

「でもそれ、どうしてそこまで怒られてたんですか?」
「そうでしょう?私も聞いたのよ、その後。」
"副長さんに、どうしたんですか?ここまでは珍しいですねって"

「そしたらね」と女中さんがお盆で口元を隠して笑う。

「"あいつ、恥曝やがった"って。」
「恥?」
「"全部喋りやがって"。"未練たらしいみたいじゃねェか"って言ってね、」

私はその言葉に笑っていた顔を止めて。
女中さんはそんな私を見て小さく笑い、


「"信じてねェみてェじゃねェか"って、自分のしたことを悔やんでたわよ。」


その言葉に、
胸が痛むのを感じた。

女中さんは「私、まだ聞いちゃって」と悪戯っ子のように笑って。

「"誰のことなんです?"て聞いたのよ。」
「…、」
「そしたら副長さん、黙っちゃって。」

「でもね、」と女中さんは続けた。

「"明日来るから、世話してやってくれ"って言ってたんだよ。」

女中さんはお盆を置いて、少しだけ私の方へと足を進めた。

「まぁ私は紅涙ちゃんだと分かってたんだけどね」と笑い、「紅涙ちゃん、」と呼んだ。

「紅涙ちゃんはよく出来る子だから、十分に分かってると思うけど、」

女中さんの温かい手が、膝の上で握り締める私の手に重なる。

皮が分厚くて、
お世辞にもスベスベとは言えない手。

「副長さんに、言ってあげてね。」
「っ…何、をですか?」

私は苦しい胸に押しつぶされる声を搾り出した。
女中さんは小さく笑って、


「正直な、紅涙ちゃんの気持ち。」


柔らかく、
温かく。

私の手に添えられた手のような、

その言葉に、


涙した。


- 25 -

*前次#