26


ジレンマ


その後、
女中さんは「ここには紅涙ちゃんが必要なのよ」と笑ってくれた。
私は「ありがとうございます」と震える声で言った。

また静かになる部屋で、
徐々に私の涙も乾いた。

針がどれぐらい進んでも、部屋に誰かが来ることはなくて。

「眠く、なってきちゃった…。」

気を張っていたせいなのか、
それとも溢れた涙のせいなのか。

目の上に、何とも言えない重さが圧し掛かった。

土方さんの部屋にはうつ伏せに凭れられるような机がない。

唯一ある机は、
土方さんが窓際に引っ付けて書類を乗せている。

いくら眠いからと言って、来客としての私が雑魚寝をするのもどうか。

「でも…、まだ帰って来そうに…ないし…。」

眠いと思ってから少しずつ温かくなる私の体温で、目の重圧は一気に強くなるのを感じた。

「少しだけ…、大丈夫だよね。」

転寝するのも難しいこの部屋で、私は壁に凭れて座った。

目を閉じれば、
珍しく男の声が聞こない屯所の空気。


極僅かに、離れた場所で女中さんたちがご飯を準備する音が聞こえる。

穏やかだ。

ここも、
今の私も。

時折、
風が運ぶ灰皿に乗せられている煙草の残り香が、不思議なほどに落ち着いて。

寂しくなくて。

悲しくなくて。


一人じゃなくて。


寝苦しい姿勢でも、
私はすぐに眠ることが出来た。


どれぐらい時間は経ったのか。
カサリと紙の捲れる音が聞こえて、

「……ん、」

僅かに目を開いた。

するとそこには、
よく知る背中があった。

「ぇ…?」
「…起こしちまったか?」

その背中はちらりとだけ私を窺い見て、「悪ィ」と言ってまたすぐに机に向かった。

私に対して垂直にあるその背中で、初めて寝転んでいることに気付いた。

慌てて身体を起こして、

「ごっごめんなさい!」

土方さんの背中にそう言った。
それと同時に、身体の上に掛かっていたものがパサリと落ちる。

目を向ければ、それは隊服の上着。
また、胸が痛む。

優しく掛かっていたその煙草臭い隊服を自分の方へと引き寄せ、土方さんの背中を見た。

すると土方さんは小さく笑って肩を揺らし、

「何に"ごめんなさい"だよ。」

と、煙草を灰皿に押し付けて火を消した。

「あっあの眠ってしまってたので…。」
「別に構わねェよ。遅くなった俺が悪い。」

淡々とそう言って、書きあがったであろう書類を机の上で整えた。

土方さんは「んー」と両腕を上げて伸びをし、首を回す。

「お、お疲れ様でした。」

私は座りなおして、土方さんに声を掛けた。
土方さんは振り向いて、「あァ」と返事をした。

ようやくこちらに向いた土方さんに面と向かえば、目を合わすことすらも躊躇ってしまう自分がいた。

気恥ずかしいような、
そんな気持ちで、僅かな静けさすらも耐えられなくなる。

「き、今日は…無事に確保できましたか?」
"密輸の容疑者…"

話を続けておかないと、どうしていいか分からない。

私は視線を土方さんの膝元に下げて言葉を掛けた。

「…誰に聞いた?」
「や、山崎君に…。」
「あいつ…、べらべらと詳しいことまで…。」

イラッとした様子で土方さんの眉間がギュッと強くなる。

慌てて「私が聞いちゃったんです」と言った。
土方さんは私を疑い見るようにして「…まぁいい」と溜め息をついた。

「で、お前の傷はもういいのかよ。」
「…はい、痛みもひいてますし大丈夫です。」

私は「…昨日は、」と言葉を続けて、

「ありがとうございました、…助けていただいて。」

頭を下げれば、土方さんは「よせよ」と言った。

「一般市民を助けるのが警察の役目。当然のことだ。」
「…そうですね…、…だけど、…」

私は少し俯いて、

「あの時の私は、偶然じゃ…助けてもらえなかったと思うので…。」

あからさまに遠まわしの言い方だと自分でも感じた。
土方さんを盗み見れば目が合って、不意に逸らしてしまった。

「それも山崎か。」

土方さんは深い溜め息と一緒に、また煙草を取り出す。
私はその姿に苦笑して、火を灯す土方さんの姿を見ながら「でも、」と口にした。

「でも、彼が教えてくれなかったら…、分からないこともありました…。」
「…。」

私の今の環境そのものが、ただの偶然じゃなかったってこと。

「こんな私に…、ありがとうございました。」

辻褄の合わないことを言い出して、
"別れてほしい"と大した理由もなく言って。

勝手で我が侭な私なのに。

心配して、
優しさを与えてくれて。

「本当に…ありがとございます…。」
「…別に。」

土方さんはどこかを見ながら、煙をふぅと吐き出して。


「俺のしたいことをしただけだ。」


トントンと、煙草の灰を落とす。
また、私の中で何かが波打つ。

「…紅涙、」
「…はい。」

いや、違う。
"何か"なんかじゃなくて。

「悪ィけど、俺。まだ割り切れてねェんだ。」
「そ、それは…何を…ですか?」

この波打つのは、
土方さんへの気持ち。


「まだ…俺はお前を割り切った感情で接するなんて出来ねェってこと。」
「っ…、」


口にする言葉とは裏腹に、
土方さんは感情の欠片も見せない様子で煙草の灰を落とした。

「お前は…もう過去の話なんだろォがよ。」
「そっそんなことないです!」
「…。」

"過去の話"?
そんな風に思ったこと、1度だってない。

「私っ…、毎日みたいに考えてっ…、何をするのだって…、考えて…っ…、」
「…。」
「だけどっ…、だけど私にはっ…、」

何も言えるわけない。

「私だって…っ割り切ることなんてっ」
「紅涙、」

自分の膝の上でギュッと握り締めた拳。
土方さんの呼ぶ声に、少しだけその手が緩んだ。

いつの間にか俯いていた顔を上げれば、
険しい顔をした土方さんと視線がぶつかった。

「それ以上、言うな。」

その言葉に息を呑んで。


「今日は…、もう帰れ。」


その言葉に、


傷ついた自分がいた。


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