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満たされない心


『別れよ、今すぐに。』

あのお爺さんが言ったこと。
ただの占い師が言ったこと。

「おい、」

それだけなのに。
私の頭は冷静さを失っていた。

「おい紅涙、」

自分でも不思議なぐらい、私の胸は濃い霧が宿り続けていた。

「おいっつってんだよ。」

その言葉と同時に、脛にガツンと何かが当たって。

「痛っ!!!」

激痛とともに視界が開けた。
まるで夢でも見ていたかのように、
私は今の状況を思い出し、目の前に座る土方さんを見た。

「飯、冷めんぞって。」
「え、…あ〜…ご飯。」

そうだ、食堂でご飯食べてたんだ。
私はぶらんとダラしなく手に持たれた箸を見た。

「紅涙さん、どうしたんですか?」
「おい山崎、テメェは人のこと心配してねェで、とっとと食べて失せろ。」
「えェェェェェ?!心配してるだけで邪魔者ですかァァァ?!」


斜め向かいの席に座る山崎さんが「酷いですよ副長〜!!」と声を挙げた。

「何でもないです、すみません。」

私が困ったように笑って言えば、「でも」と山崎さんは心配してくれた。

私、そんな顔に出てたんだ。
普通に振舞ってるつもりだったのにな。

ふぅと小さく溜め息をつけば、「ほら!やっぱり!!」と山崎さんは指摘して。

「煩ェ!失せろ!!」

それに土方さんが一喝して。
メソメソと山崎さんは去って行った。

「で?お前はどういうつもりだァ?」
「…はい?」

土方さんは手に持っていた丼鉢をお盆へ置きながら言う。

「その態度、どういうつもりだっつってんの。」
「…私は…別に何もしてませんけど。」

反感買うのも承知で、私は「何の話ですか」と言った。
土方さんは机にお箸を置いて、私を見据えた。

「現に山崎も気にしてただろォが。」
「山崎さんは…心配性なだけじゃないですか?」
「紅涙…、お前いい加減にしろよ。」
「だから私は」

そう声にした時、

「ぁ…あれ…?」
「…お前…、」

私の意志に反して、勝手に目から涙が流れた。

つい今まで悲しくもなかったのに、
涙が流れた途端、悲しくて仕方がなくなる。

心の中は悲しみで一杯でも、
頭の中は元の私のままで。

涙に一瞬驚いた土方さんを前に、
私はただ「あれ?」と苦笑しながら涙を拭った。

土方さんは気まずそうに眉間に皺を寄せて目を逸らし、胸ポケットに手を入れた。

だけどそこに煙草はなかったようで。
チッという舌打ちだけが、賑やかな食堂に紛れず、私の耳に届いた。

「さっきのこと、気にしてんじゃねェかよ。」
"気にすんなっつってんのに"

土方さんはいつも通りの口調で私に言ったはずだったのに、

「っ…、ぅっ…」

私はいつもと違って泣き出して。

「おっおい、紅涙!」
「ごめっ…なさっぃっ…、でも…っそんな言い方っ…」

私はこんなに不安なのに。
こんなに心配なのに。

どうして土方さんは不安じゃないの?
どうして土方さんは気にならないの?

悲観的な考えが、頭に響いて。
胸が痛くて。

涙が止まらなくて。

私は持っていた箸を投げ捨てて顔を覆った。


「や〜ぃ、土方さんが紅涙を泣かしてらァ。」


沖田君の声がして、

「テメっ、総悟!!」

土方さんがガタンッと立ち上がった音がした。

「何ですかィ?何か間違いでも?」
「テメェの存在が間違いだコノヤロォォ!!」
「うっわ〜。この人、紅涙を泣かした上に八つ当たりしてらァ。」

聞き慣れた二人の掛け合いが始まって、
また私のことなんて忘れるんだろうな、なんて。
やっぱりどこかいつもより悲観的な私が居た。

だったけど。

「紅涙!行くぞ!」

乱暴な言葉で、私の腕を引っ張って。

「痛っ…、土方さん、痛いです…。」
「土方さんが紅涙を拉致ろうとしてまさァ!」
「テメェはいちいち煩ェんだよ!」

「退け!」と言って、土方さんは私を食堂から連れ出した。

そのまま黙々と廊下を歩いて、
私は黙って手を引っ張られている。

きっと、
すれ違う隊士は私が何か仕出かしたと思っているに違いない。

そう言えば、
ついこの間も、こんなことあったっけ。

あの日は、
細くて暗い路地に連れられて。

『俺はお前を繋ぎとめておきたいとも思わねェ。』

胸が痛む言葉を土方さんは言ったけど。

『隣で、ンな顔ばっかさせてる気なんてさらさらねェよ。』

胸が苦しくなるほどの言葉でキスをした。

土方さんがどう思っていても、
私はやっぱりこの背中を、

手放すことなんて出来なくて。

『愚か者よ、』

今の私には。
別れるなんて、出来ないよ…。

「…紅涙。」

そんなことを考えているうちに、
土方さんは足を止めて私を呼んだ。

その言葉に顔を上げれば、
土方さんの肩越しに見える副長室。

部屋の前の廊下で、
私は土方さんに手首を握り締められたまま、
その背中を見た。

「お前は…、どうしたいんだ?」
「…え…?」

土方さんの背中は大きくて、
いつもより低いその声さえも遮ってしまう。

私が少し前のめりになって耳を近づければ、


「やめるか?」


土方さんのその言葉が、
私の身体へ真っ直ぐに突き刺さった。

"やめる"…?

「何を…ですか?」

私の声は、震えていた。

「…、」

土方さんが掴む私の手首は放されて、
ゆっくりと私と向き合った。

「…何を…ですか、…土方さん…、」

彼の目に、
見上げる私の顔は、

どんな風に映ったのだろう。


「俺らの関係。」


その言葉が頭へ届く前に、私は廊下を駆け出した。


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