5


私が。


土方さんの部屋の前から駆け出した廊下。
右手で口を覆って、走った。

後ろから追いかけてくるモノは何もなかった。

足音も、
引き止める声も。

『俺らの関係。』

頭には、
もう届いてしまっていて。

「っ…、」

その言葉で壊れた頭が、
何度も同じ言葉ばかりを反復させていた。

―――ドンッ

「おっと、」

俯きながら走ってると、人にぶつかって。

「紅涙じゃねーですかィ。」

とても顔は上げられなかったので、
私は軽く会釈をして通り過ぎようとした。

でも。

「っ?!」

腕は掴まれて。

口に手を覆ったままの私と、
何の感情も見せない沖田君の目と合った。

「廊下は走っちゃいけやせんぜ。」

呑み込まれそうな、その沖田君の目。
瞬きをした私の目から、真っ直ぐに涙が落ちて。

「それは何の涙ですかィ?」

沖田君はいつも、つかめない。

彼が何を考えているのか、
何を思っているのか。

いつだって、沖田君の目は。

真っ直ぐなのに、
私の息を止めてしまいそうなほど冷たい。

「また"野郎"ですかィ?」

次々に向けられる質問を、
私はただ顔を弱く横に振って。

今度こそ、
この場から去ろうと彼に会釈をした。

そして背を向けた時、


「紅涙はどうしたいんですかィ?」

『お前は…、どうしたいんだ?』


私に向けられたその言葉に、
一瞬、足を止めて。

「…失礼します。」

沖田君の傍から離れた。

私が、どうしたいか、なの…?
私が…?

…私が。


「…来たか。」

暗い夜。
人通りの多くないその路地で、
まるで悟っていたように男はそう言った。

私はあの占い師の下へ向かったのだ。

話を、
聞いてみたいと思ったから。

場所は前と違ったのに、
不思議と彼が居る場所が分かった。

「…別に…何かをしに来た訳ではありません。」
「構わんさ。」

男は以前と違って浅黒い布を被っていた。
顔は窺えない。

でも僅かに見える手の肌が、以前に比べて随分と皺がない。
そう、"若くなった"と目に見えて分かった。

そんなこと、ありえない。
それでもこの男は、前に私を呼び止めた男だと分かる。

まるで本能が分かっているように。
怪しくない訳がない。

私は男の周りを見渡してしゃがみ込んだ。

「商売道具はないんですね。」

そこには商売をする机もイスもない。
占い師らしい水晶なんて持っての外。

私が皮肉を言えば、彼は小さく鼻で笑った。

「商売なんてしていない。」
「占い師なんでしょう?前に追いかけられてたじゃないですか。」
"街娘に"

男は「あれは、…」と私に言ったのに、その後に言葉が続かなかった。
「どうでもいいこと」と言って、私を見た。

「今日は何をしに来た?」
「…前に…、言った言葉の真意を聞きに来ました。」
「"真意"と。」
「えぇ。どういうつもりで言ったのか。」

どうして、
別れろと…。

どうして、
これほどまで悩ませるのか。

彼はもう一度「真意」と口にして、

「助言だ、こちらから出来る助言。」

と言った。
私はその言葉に鼻で笑った。

「やっぱりただの占いだったんですね。」

何の確信もないただの助言だったと言う。
これほどまで気にしていた自分が馬鹿のようだ。

「お前たちは信じろと言っても信じないだろうな。」

男はまた小さく笑う。

「そうだったから今があるのだろう。」

呆れたように鼻で笑う。
「だが」と続けた男のその声は、

「お前たちは必ず結ばれない。」

突き放すような言葉を紡ぐのに、


「二人は許されぬ仲。別れるんだ。」


それは私たちのために言う言葉で。


「お前たちは傍に存在することが罪なのだ。」


伝えたいことが遠回りをして私に届く感覚。

あぁ、
あの人に似ている。

私は目の前の男の話を、
どこか頭の隅で処理していた気がする。

「信じぬお前たちに、見せてやろう。」

男はそう言って。
一人静かに黙りこんだ。

少しの沈黙の後、
ゆっくりと口を開けて、


「晦の夜、攘夷浪士の刃が血を誘う。」


夜に溶けそうな声で言った。
それはまるで、

「予言…のつもりですか?」

ありえない。

私は疑うように眉間に皺を寄せ、
首を傾げると、

「あの男が血を見よう。」

落ち着いた声で男は言い、「信じるも信じないも自由」と続けた。

「だが、そのこと。覚えておけ。」
"それでお前が何を思うかも自由だ"

男はそう言って、後ろの細い路地に入り込んだ。
「待て!」と声を掛けても、
男は暗い薄がりに消えて、後から私がその路地に入った時に姿はなかった。

「…。」

暗い夜に佇む私の影が、
誰もいない細い路地へ向かって伸びて。

また心に影を作った。


- 5 -

*前次#