52


カレは彼


立ち上がった私は、すぐに足を止めた。

違う、
止められた。

「あの…、」

握りしめられた手首を見て、私は放してほしいと促す。
それでも彼は強く握りしめたまま一向に放す気配がない。

「…誰に?」
「え…?」
「誰に…電話すんだよ。」

それは、初めて見る彼だった。
こんな風に感情をむき出しにされたことがなくて。

「土方さんに…、…あ、えっと、その…、私の…大切な人…です。」

私は内心、驚きながら口にした。
それを聞いた彼は、すぐに眉間の皺を濃くした。

そして一言、


「しなくていい。」


私に、はっきりとそう言った。

「…え…?」
「電話、しなくていい。」
「そ、そんな、私がしたいんですから、」
「するな。」

どうしたんだろうと思った時にはもう、

「あっあの、」

抱きすくめられていた。
納まった、彼の腕の中。

「紅涙っ…、」


その時の感覚が。

『紅涙…、』

「っ、やめてくださいっ!」

私は彼の胸を押して離れた。
土方さんを、思い出した。

まただ、
また重なった。

抱きしめられた腕の中も、
その時に鼻に届いた匂いも。

私を呼ぶ、声も。

突き離して出来た距離を、彼は詰めようとはしなかった。
ただ何か言いたそうに口を開いて、何も言わずに閉じた。

私と彼の間に風が吹いて。
ぽつりと吐き出した彼の言葉は、

「悪かった。」

とても短いものだった。

その言葉は、
この状況に当然の言葉だったのかもしれないけど、

私は頭が真っ白になった。

どうしよう、
どうしよう。

私とすれ違うようにして彼は歩いて行く。

どうしよう、
どうしよう…、

行ってしまう。
また離れてしまう。

ずっと寂しかったのに。

やっと一緒になれたのに。


…"やっと"?



『紅涙…、』


あぁ…、


「…、ど、して…、っ…、」


あなたと重なって、

当然じゃないか…。


「っ…、どうして…っ…、」


私、

知ってるもの。


「どうしてっ…、言ってくれなかったの…、っ、」


彼を、

知っているもの。


「、っ土方さん、っ…、」


ずっと、
誰よりも傍に居てくれたなんて。

どうして言ってくれなかったの。

すぐに私は彼の背中を追った。


中庭を飛び出して、
玄関口までの廊下を走る。

看護師さんの怒鳴る声がしたけど、何も考えずに土方さんを追って走った。

二つ目の角を曲がった時に、見知った背中を見つけて。

「っ…!」

私は彼の背中に向かって抱き付いた。
助走がついていたものだから、土方さんの身体はぐらりと揺れる。

「なっ…、…紅涙…?」
「やっと…っ…、」

土方さんの背中に顔を埋めて。

「っ、やっと、逢えたっ…、」

ギュッと、
きつく抱きしめた。

「ごめんっなさい、っ…、土方さんっ…、」

待たせて、ごめんなさい。
ずっと傍に居てくれたのに、ごめんなさい。

「っ、ありがと、っ…、土方さん…っ」

待っててくれて、ありがとう。
ずっと傍に居てくれて、ありがとう。

「…、…あァ…。」

土方さんがしがみ付く私の腕を離して、頭を撫でた。


「俺も…逢いたかった…、」


失った時間を埋めるように。
流した涙の時間を埋めるように。

「っ…大好きっ…、」

何度だって言うよ。

「紅涙…、」

もう、後悔はしたくない。

だからこれからは、

全部、
全部ちゃんとあなたに伝えるよ。

「ずっとっ…、っ大好き…っ、」
「…あァ、」

土方さんは私に目を細めて笑んだ。

私を見る土方さんの目が揺れる。
光の水が、彼の目を揺らす。


「ずっと、一緒だ。」


あなた以上にある私の涙を、土方さんの指が攫っていく。

ねぇ、
もう心配、しないで。

ここにいるよ、私。
生きて、土方さんの傍にいる。


約束、
ちゃんと守れるよ。


私たち、

きっと、


きっともう、大丈夫。


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