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晦の夜


細い月を浮かべさせた夜は、あっという間に明けて。

薄い眠りもすぐに覚める。

「紅涙。おい、紅涙。」

同じぐらい眠そうな土方さんの声が遠くで聞こえる。

「…、はい…。」

寝ぼけ眼で土方さんに返事をして目を擦った。

「朝だぞ、起きろ。」
「…まだ…、眠いです…。」
「知るかよ、俺も眠ィよ。」

土方さんの大きな欠伸が聞こえて、私はゆっくりと布団から身体を起こした。

隣では早くも煙草に火を点ける土方さんが目をシバシバさせながら座っていた。

「やべェ…眠ィな…。」
「はい…、眠いです…。」

離れた場所で、女中さんが雨戸を開ける音がする。
土方さんは咥え煙草で立ち上がって、伸びをした。

「土方さん、」
「あァ?」
「寝癖。」
"ついてますよ"

私は自分の頭を指差して指摘した。
土方さんはそのまま鏡の前に言って自分の髪を触って、面倒くさそうな顔をしている。

私が笑えば土方さんが顔を引きつらせる。

「馬鹿にしてンのかコラァ。」

土方さんが私の髪をワシワシして、「やめてください」と笑った。

楽しくて、
幸せで。

愛しくて。

その時間は、今も温かい。


今日の1日は、土方さんの市中見廻りはなかった。
それだけ隊士が出払うこともなく、平和に過ごせたという証拠。

私もその一人で、
ゆっくり流れる時間を、
何の特別もなく過ごした。

夕方になって、
晩ご飯を皆と食べて。

沖田さんと土方さんの一問答を見て、
山崎さんが殴られる図を見て。

夜になって、
近藤さんが行き付けのスナックから早くも帰って来て。

怪我を治す女中さんの傍で「一途ですね」と近藤さんの恋愛道を聞いた。

ちゃくちゃくと針は時を刻む。
いつも通りのペースで。

誰にも邪魔されず、
誰にも支配されず。

それが普通。


「は〜ぁ、今日もいいお湯でした。」

湯気の立ちそうな身体を感じながら、廊下で一人満足げに呟いた時。

「それじゃ俺は先に行ってますんで!」

バタバタと忙しない足音が聞こえた。

耳を澄ませば、私の歩く先の方向からで。
少し進めばその光景が窺えた。

「…何だろ。」

目の先には山崎さんが駆け出して行く姿が見えて。
次に続いて誰かに頭を下げたのは原田隊長だった。

「原田隊長!」
「…なんだ、紅涙か。」

駆け寄る私を見て、少し肩の力が抜けたのを感じる。

何?
何か緊迫する状況なの?

「どうしたんですか?」
"急に皆バタバタして…"

私が周りを見渡すように言えば、「あー」と原田隊長は言葉を探した。

でも中々次の言葉が続かない。

「原田隊長?」

私が首を傾げたのと同時に、
さっき原田さんが頭を下げた部屋から声が聞こえた。

「原田、お前は先の部隊で…、」
「あ、土方さん。」

原田さんに向かって話していたのに、
私が目に入った瞬間から土方さんは口を閉じた。

「何があったんですか?」

原田さんに聞いたことと同じ言葉を振る。
土方さんは口を閉じて、眉間に皺を寄せて視線を下に逸らした。

「土方さん?」
「大したことじゃねェ。」
"ちょっと行ってくる"

それだけ言うと、
土方さんは私の前を通り過ぎた。

目で追えば、
その先には原田さん率いる十番隊の姿があった。

「土方さんっ!」

ただ事じゃない。
私の直感がそう言ったと同時に、土方さんの腕を掴んでいた。

「何があったんですか?!」
「…大したことじゃねェって。」
「言ってください!」
「ったく、煩ェな。」

土方さんは面倒そうに私を見る。

「攘夷一派のアジトが挙がったんだよ。」
"大したことじゃねェだろォが"

その時、
やっと私の頭に言葉が響いた。


『晦の夜、攘夷浪士の刃が血を誘う』


ギュッと土方さんの腕を掴んだまま、暗い空を見上げた。

空には、

月が、

なくて。


「…駄目…。」

私は顔を横に振った。
土方さんが不思議そうに私の名前を呼ぶ。

「紅涙?」
「…駄目です…。行かないで…ください…。」
「…何言ってんだ、お前。」

私は先ほどよりも強く顔を横に振った。

「行かないでください…。」

あんな男の言うことを信じたわけじゃない。
あんな言葉を真に受けてるわけじゃない。

でも。


「行かないで…っ…。」


行ってほしくなかった。

「攘夷つっても、桂側だろ。過激派じゃねェから心配することじゃねェよ。」

土方さんは「さっさと行って寝てェよ、俺は」と眠そうに言った。
私の掴んでいた手を握って、

「まァお前が寝てる間に終わってるだろォよ。」

自分には敵がいないと言った様子で土方さんは笑って、「だから寝てろ」と言う。

私は「だったら」と言った。

「だったら、私も連れて行ってください!」

私は真剣だった。

私が一緒に行けば、
土方さんに何かあると注意をしていれば、

きっと何もなく済むだろうから。

「今からすぐにでも仕度します!」

私は土方さんの返事を聞かずに廊下を駆け出そうとすれば、

「駄目だ。」

痛いほど土方さんの手が私の腕を止めた。

「お前は連れて行かない。」
「っ!ど、どうしてですか?!」
「夜は昼間と違って女は目立つ。」
「分からないようにします!」
「テメェには分からないだろォが、女の独特の香がするんだよ。」
"夜は五感が冴えるからな"

私は唇を噛んだ。
土方さんは腕を放した。

「心配しなくても、お前の活躍する場は他でもあるさ。」

まるで子どもをあやす様に土方さんは私の頭を叩いた。

「っ、違います!そういう意味じゃ」
「行ってくる。」

土方さんは私の言葉を遮るように背中を向ける。

軽く後ろ手を上げて、
土方さんは十番隊を引き連れて出て行った。

バタンと閉まった玄関は、
すぐに夜特有の静けさに戻した。

暫く立ち尽くす私の身体はすぐに冷たくなった。

少し寒い空気が、冬の匂いをさせて。

冷たくて、
悲しい、

そんな匂いだった。


ちゃくちゃくと針は時を刻む。
いつも通りのペースで。

誰にも邪魔されず、
誰にも支配されず。


それが、憎い。


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