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東の空


「トシ、吉原行くか!」
「あァ?」

夕飯の後。
ふらっと着流しの近藤さんが俺の部屋を開けた。

この誘いは、
少し前から増えた。

「必要ねェよ。」

いつもと同じ返事をする。
次に近藤さんが言うことも、いつもと同じ。

「いやいやいや!行った方がいいって!」
"息抜きも必要だって!"

そして俺は言う。

「十分これで息抜きしてるさ。」

書類に目を通したまま、
近藤さんに見えるように煙草を持つ手を上げる。

ここで二つに分かれる。


"また今度誘うからな!"と諦めるか、
"駄目だ!行くぞ!"と無理矢理に連れて行くか。


今日は、

「さあ行くぞトシ!」

どうやら後者のようで。
俺は溜め息をついて、「さあさあ」という近藤さんを見る。

「あんた、俺が吉原行かねーの知ってるだろ?」
「行く必要がねェからだろ?」
「…ああ。自分で呑む酒も十分に旨い。」
「だがそれじゃ駄目な時が男にはあるんだって!」

こういう話になると面倒だ。

だから俺は大抵、
近藤さんの話を切り上げるように"分かった"と吉原へ行く。

だが今日は、
俺にしては珍しく近藤さんの吉原大切論を聞いた。

そしてそれでも「行かねェって」と言う。

「悪ィが俺はそんな気分じゃねーんだ。」

鼻で笑って「悪いな」とまた背中を向けた。

「トシ、お前まだ…気にしてるのか?」
"あの鍛冶屋睡魔事件のこと"

鍛冶屋睡魔事件。
俺と総悟と鍛冶屋が揃って仲良く眠っていた夜の話。

いつの間にか噂になっていて、
色んな尻尾がついたりしたが勝手にそう呼ばれている。

「…まァな。」
「何も思い出せないんだろう?」
「ああ…全く。」
「確かに変な夜だったよな。」

近藤さんが「気になるのは分かる」と言った。

「…。」

俺は、
あの時に何かを失くした。

違和感。
目が覚めた時、確かにそれがあった。

「だがトシ、もう去年のことだ。」

そう。
それは去年の話。

だが俺の中では、時間が止まったまま。

不思議なぐらい、
あの夜に、俺は留まろうと執着している。

自分でも、分かる。

「そろそろ諦めた方がいいんじゃないか?」

だから近藤さんがそう言うのも分かる。

俺も、俺が分からない。
あの夜にこだわる理由。

何も思い出せないのに、そこに何の価値があるのか。

「…、」

諦める。
忘れる。

そんなことが、なぜか出来ない。

近藤さんを心配させないように、嘘をつくことすら出来ない。

口にすることが、とても恐い。

「…トシ…、」

その声に、俺は苦笑する。


「付き合うよ、近藤さん。」
"吉原、行くんだろ?"


この話は、
一人で考えるものだ。

近藤さんには関係ない。

そう思って俺が声を掛ければ、近藤さんは「よし!」と笑った。

「なら今日は穴場発掘しようじゃないか!」

着替える横で、何やら意気込んでいる。

「穴場っつっても吉原だろ?」
"ほとんど知ってんだろーに"

帯を締めて、煙草を咥える。
近藤さんと部屋を出て、廊下で山崎に会う。

「おお山崎、トシと出てくるから頼んだぞー。」
「副長と一緒ってことは、吉原っすか?」

後ろ手に「おう!」と近藤さんが返事をする。


そのまま屯所を出て、
いつもの吉原の方角へ歩く。

「で?何か目当てがあって歩いてんのか?」
「ああ。この前にさ、酔って迷った時に見つけたんだ。」

迷うって…。
おいおい、どれだけ酔ってたんだ?

だがそうは言っても狭い吉原。

「知らなかったのか?その揚屋。」
「ああ、名前も…何だったっけかなあ…。」
"小さいんだ、他に比べて"

臭うな、
と思ってしまうのは職業病。

近藤さんは「その酔った時にさ」と嬉しそうに話した。

「随分と親切に介抱してくれてな。」
"それがまた新鮮でさ"

こりゃまた随分と贔屓目にしてそうだな。

介抱と称して、
金を取られてねェんなら質のいい揚屋だ。

「ま、いい店なんだろーな。」
「おう!だからトシも気に入るぞ!」

近藤さんが笑う。
俺はそれに苦笑する。

すまねェな、近藤さん。
気、遣わせちまって。

「おーあったあった!」
"アレだ"

大通りから影。
立地条件からなのか、確かにそこは目立たない。

だが、


「ここ…。」
「トシ…?」


その揚屋を、俺は知っていた。


「…、」
「おい、どうした?」


いや…、
来たことなんて、ない…はず…。

気のせいか…?

「気分悪いのか?今日は戻るか?」

近藤さんの声を頭の隅で聞きながら「大丈夫だ」と声を出した。

「本当に大丈夫か?」
「あ、ああ…。」

足を踏み出す。

途端、
身体の中がザワついた。

この揚屋が気になる。
中を見て、知っていると確信したい自分がいる。

同時に、

胸騒ぎがする。
古傷をえぐられるような感覚。

「やっぱり戻った方が」
「いや、…。」

俺はさらに足を進める。

「行こう、近藤さん。」

行かなければ、いけない。
どんなことが待っていても。

きっと、
俺はここで拾う。

失くしたと思っていたもの。

「夜が…ある。」
「トシ?」
「ここに…あの日の夜がある。」

何の根拠もないのに、
その時の俺は、確かにそう思っていた。

あの夜が、

明ける気がした。


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