「はぁっ…はぁっ…」
屯所の前。
辿り着いた私の耳には、
自分の息の荒さよりも、大きな声を捉えていた。
「相手は高杉率いる鬼兵隊だ!」
近藤さんの声。
「何があってもおかしくない、心して望んでくれ!!」
「「オォォォォォ!!!」」
それに被せる隊士たちの声。
門番はいないようで、
私は敷地へそろりと足を踏み入れる。
建物の中から声が聞こえて、
私はすっかりすり減った下駄を脱いで入る。
どんどん声が近づく。
「お前らがいない分、江戸は俺が責任を持って守る!」
覗きこんだ部屋は、広間のようで。
「安心して、大坂で手柄を立てて来てくれ!」
人の隙間から僅かに見える一番前では、近藤さんが声を張り上げている。
整列した隊士は、既に身支度を整えていて。
これが終われば出発だというのは、十分にその雰囲気で気付いた。
コホンと、
近藤さんのわざとらしい咳払いが響く。
「えーではここで大坂の部隊を仕切るトシから一言。」
「あァ?!…俺はいいって。」
「そう言うなって!皆も期待しているぞ!」
「「副長〜!!!」」
その声に反応して、私はより近くへ足を進めた。
近藤さんにせがまれて、
気乗りしない土方さんが立ち上がる。
「…まーアレだ。全員で帰ってくるぞ。」
「「副長〜っ!!!」」
「いちいち煩ェよ、お前ら。」
「死ね副長ー!!」
「あァ?!誰だ今言ったやつ!!」
緊迫していた空気が、ほんの僅かに薄らいで。
「…とっとと行って、とっとと帰ってくるぞ。」
土方さんが腰の刀に触れた。
「守りてェもんのために、俺たちがいる。」
先ほどまでの隊士の声は、
これだけの人数がいるのに嘘のように静かで。
「それを守れるんなら、どれだけ泣かせたっていい。」
私の息遣いまで、聞こえてしまいそうで。
「貰ったもんは、あまりにもデカ過ぎて返せやしねーけど、」
土方さんは刀から目を放し、
誰を見るわけでもなく、ただ真っ直ぐに前を見据える。
「俺はそのためなら、鬼になる。」
水面に波紋が出来るように、心が震えた。
「土方…さん…っ、」
小さな声で呟いて。
私の声は、猛る隊士の声に消える。
苦しくて、
口に手を当てて、
その場にしゃがみ込んだ。
「それでは大坂へ行く者は前へ!」
掛け声のように掛かったその言葉に、隊士が動き出す。
座りこんでいた私を、
一番後ろにいた隊士が気付いてギョッとした。
「あ、あんたどこから」
「黙ってな。」
「おっ沖田隊長?!」
その声に、振り返る。
振り返れば、沖田さんが立っていた。
「沖田さん…、」
顎で前の方を差し、
「行っちまいやすぜ。」
立ち上がらせるために、
私へ差し出してくれた手は、
「もう必要ありやせんかね。」
沖田さんは苦笑して、自分のポケットに直した。
私はそれに頷いて、
「っ…ぅっ…言ってきますっ…」
目を拭いた。
私と同じように沖田さんは頷いて、
「言ってきなせェ。」
笑ってくれた。
私はまた、沖田さんの元から走り出す。
ザワめく隊士を掻き分けて、
表へ出て行こうとする土方さんの背中を追いかけた。
「っ、すみません、」
「おい気をつけろよ…、お、女?!」
ガヤガヤとする隊士に、何度もぶつかる。
前へ集まる隊士とは別に、
私がいることで騒がしくなり始めた広間。
「誰だこれ。」
「あんたどこから」
畳の上で転んで、
立ち上がろうとする背中に色んな声がぶつかる。
今はそれに答える余裕もなくて、
「すみません、」
立ち上がり、ただ謝って、
土方さんがいた場所に目を向けた。
だけどそこには、
「っ!」
もう彼の姿はなくて。
「土方…さん…?」
一瞬頭が真っ白になった。
「土方さん…、…どこ…?」
何も、
聞こえなくなっていく。
騒がしいはずなのに。
どうしよう、
どうしよう。
もう、いない。
逢えない。
「っ…、」
言ってない。
言わなきゃ。
だってまだ私、
「…どこ、っ土方さん!」
あなたに、何も言ってない。
"気をつけて"も、
"行ってらっしゃい"も。
「私…私っ…」
これからも、
"あなたと幸せでいたい"って。
「どけ!」
よく知る声が、隊士の中から聞こえる。
掻き分けるように、
その人は私の前に息を切らせて現れた。
「紅涙!!」
「っ、土方さ…っ!」
何度目か分からない彼の名前は、
「お前っ…何で来たんだっ!」
強く、抱き締められて途切れた。
ざわめく周囲。
なのに、
目を瞑れば何も気にならなかった。
嗅ぎなれた煙草の匂い。
見慣れた真っ黒で綺麗な髪。
痛くて優しいあなたの腕。
「紅涙、俺は」
「待って、ください。」
今は、
今は私が話さなければいけない。
「…土方さん、」
あなたの声、
たくさん聞きたい。
だけど、
私、
あなたにちゃんと伝えたいの。
「わたし…、」
抱き締めたまま、彼の耳元で話す。
「私…、待ってますから。」
「…っ。」
背中の隊服をギュッと握り締めて。
「絶対…待ってますから。」
「…紅涙…。」
何が、あっても。
「だから…だから帰ってきて…。」
「…、…あぁ。」
私にはあなたしか居ないの。
「…、幸せです。」
「…?」
彼の腕から離れて、
息が掛かりそうなほど近い距離で、土方さんと目が合う。
「今、私…幸せです。」
「紅涙…、」
今までも、
これからも。
「土方さんが居れば、幸せです。」
「っ…、」
あなたさえ、居ればいいから。
「行ってらっしゃい、土方さん。」
情けない顔で笑えば、また抱き締められた。
「…行ってくる、紅涙。」
「…はい…、」
離れて、また目を合わせて。
"お気をつけて"
そう言おうと思ったのに。
あなたの顔を見ると、胸が苦しくて。
「お気を…っつけ…てっ…」
声に、ならなかった。
「っ…ごめんっなさい…っ」
「…紅涙、」
名前を呼ばれて顔を上げる。
土方さんの指が、私の涙を掬った。
「ありがとう、紅涙。」
彼の瞳は、
日の光を受けたように輝いて見えて。
「行ってきます。」
その言葉は甘く、重い。
彼の指が髪を掬って、
惹き付けられるようにキスをした。
瞼を閉じれば、また涙が流れた。
「お気をつけて。」
やっと言えたその言葉は、
彼の背中に言った。
日は昇り、
彼らは大坂へ。
あなたの居ないこの江戸で、
私はいつまでも。
あなたの帰りを待ち続ける。
『ただいま、紅涙。』
その言葉を、聞くために。
A part END
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2011.8.15
(2008.08.16)
*せつな*