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折れた簪


小物屋は、それほど遠くない。

すれ違う知り合いに挨拶をしていれば、あっという間に着いた。

「おや。久しいね、紅涙ちゃん。」
「お久しぶりです。」

店番の女性は、
声を掛けた後すぐに「あれ?」と言った。

「その簪、壊しちまったのかい?」

持っていた簪を、彼女の元へ差し出す。

「直してほしいそうですよ。」
「"そうですよ"ってアンタ。これ、アンタのだろう?」

当然、
と言ったその口ぶりに驚いた。

この人は、
私が簪などを付ける方ではないと言うことは知っているはず。

だから小物屋にも滅多に来ないのだ。
なのにこれを私のだと?

「…違いますよ、これは頼まれ物。」
"私は簪なんて持ってないですから"

苦笑して言えば、壊れた経緯を聞いてきた。

"あいつがいつの間にか買ってきて、
いつまでも渡せないまま、懐に仕舞っていたせいで壊れた"

そんなことを伝えれば、
彼女は「あらあら」と含み笑いをした。

「それ、アンタのだよ。」
「…だから違いますって。」
「あの子、アンタのために買って行ったんだよ。」

…え…?

「その時、相談に乗った私が言うんだから間違いないよ。」
「な、んで…、」
「さあね、それは本人に聞いてやんな。」

あいつが…、私に…?

急に、鼓動が速くなった。
恥ずかしくもなってきた。

「でもおかしいねえ。」

彼女はそれを手に取って言う。


「次は簪つけさせて連れて来るって言ってたんだけどねえ。」


その言葉が、やけに引っかかった。

「その様子じゃあ、失恋したわけでもないみたいだし。」

どうして、
あいつは自分で来なかった?

彼女から、こういう風に伝わることは想像出来たはず。

恥ずかしかったから?
だからって人伝にするようなヤツじゃない。

「あの子、忙しかったのかい?」
「…いいえ。」

どうして、
私だけをここに来させた?

…"私だけを"…?
…わざと…?

その瞬間、
身体の中を何かがザッと通り抜けた。

「…。」
「紅涙ちゃん?大丈夫かい?」

嫌な、予感がする。

「…すみません、帰ります。」
「え、でもこれどうす」
「持って帰ります!」
「そ、そうかい。」

引っ手繰るようにして簪を握り直して、元来た道を駆け出した。

頭の中は、
ありえる限りの状況を考えていた。

その中に楽しいことは一つも浮かばない。
こういう予感だけ、いつも当たる。


「お願い、何事もないようにっ…、」

私に隠さなければいけないようなことをしている、

もしくは、
愛想をつかせて置き去りにどこかへ行った。

その程度であってほしい。
それよりも悪いことは考えられない。

こんな時にも、
私は都合よく許せることだけが頭に浮かぶ。

「つまらないことで、ありますようにっ、」

あの角を曲がれば、見える。

走ったせいか、
これからの光景のせいか。

息は、
今までに感じたことがないほど、苦しかった。


「はあ、はあ、」

外観に変わったところはない。

ただ、声がしない。
あんなにいっぱいいる仲間の声がしない。

「…、」

敷地に足を踏み入れる。
じゃりじゃりと、石が擦れる。

私だけの足音。
私だけの息遣い。

なぜか、声を出すのに気が引けた。

空気が、
張り詰めている気がする。

「…。」

高鳴る鼓動は、嫌な音。
膨れ上がるのは、嫌な予感。

そのまま中には入らず外を歩いて、

「…っあ…、」

私の息は、止まった。

少し広くなっている場所。
土色の砂利。

私の眼前に、

「…、…、」

積み重ねるようにして横たわっている、仲間がいた。

その場には、
見たこともない量の血溜まり。

そこにだけ不自然なほど。

絶命しているのは、一目瞭然。


「…はっ…、っ、」


息が、うまくできない。

ただ口元に手を当てて、その光景を目に焼き付けて。

「…、…、」

足も頭も動かない。
そんな真っ白な世界に、


「…、紅涙…、」


小さな、
とても小さな声がした。

私はすぐにそれがアイツだと気付いた。

声の方へ駆け出した。
積み上げられた傍に、凭れかかるように座っていた。

「っ…、す、すぐに誰かを」
「いい、…、…助から、ないさ。」

私を見る眼は血に濡れて、目を開けるのも辛そうで。

ずっと当てたままになっている右手は、腹部に頼りなく置かれている。

「だ、誰が…、誰が、こんなこと…っ」

まるで私の方が傷ついたように震えている。
彼は酷く落ち着いていて、


「…紅涙は、…無事、…か…?」


優しい声で言った。

私は何も言葉が見つからなくて、
今どうすれば一番いいのかも分からなくて。

小刻みに、何度か頷いて見せた。

彼はやんわりと笑い、思いついたように声を出す。

「そう、だ…、簪、…ある?」

言われるまま、簪を見せた。

それを、
ゆっくりと、重い手が摘む。

私の手の平に、
摘んだ時に触れて血がついた。

紅い手は、
そろそろと上がり、私の髪に弱く刺さる。


「ああ…、やっぱり、似合う…。」


細めた目は、
ついさっきに見たあの愛おしむ眼と同じ。


「これ…お前の、だったんだ。」


晴れ渡った、さっきの場所と同じ。


「折れてて、…ごめん、な…。」


私の頬に伸びた手は、ぬるりと冷たく。


「…ひとりに、して…、ごめん…、」


彼の眼から、
赤色を拭い去るようにスッと涙が落ちた。


「…、…紅涙、…生きろ…、…」


落ちた涙に導かれるように、


「俺たちの、…分まで…、自由に、…」


私を映していた眼は、静かに閉じた。

もう、開かない。

「…、や、…だ、」

もう、二度と。

「やっ…やだ、…っ、」

さっきまで、笑っていた仲間。
さっきまで、話していた仲間。

一緒に、生きてきた仲間。

家族が。

「っ…、ぅっ」

ようやく私は、泣いた。
叫ぶように泣いた。

いくら声を出しても治まらない。

地面に顔を伏せて、爪を喰い込ませて。

喉も、
耳も、
千切れてしまうんじゃないかと思うほど叫んだ。

顔を上げれば、現実。

声も出なくなった頃、
悲しみは、憎しみを伴わせた。

「誰が…、」

誰が、こんなことを…!
どうしてこんなことを!

頭の中には、憎しみしかなかった。

消してやる。
みんなの痛みを、その身体に刻んでやる。

砂を握り、
歯を噛みしめた時、


「まだ残っていたか。」


人の声がした。


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