28


トリレンマ


部隊が到着するのは23時。

「…。」
「…。」

神楽ちゃんはもう眠ってて、
坂田さんはダラしなくテレビを見ている。

私はその向かいで、静かに立ち上がった。

「…、…坂田さん。」

正直、
声を掛けていくか悩んだ。

もう二度と会わないだろうし、
何て声を掛けていけばいいのか分からなかったから。

「んー?」
「…あの、…、」

それでも、
お世話になったのは事実で、
優しく、してもらったのも事実で。

「…私、…、行きます。」

黙って出て行くのは、気が引けた。

「…お世話に、なりました。」

"どこに行く"とか何も言えないけど、
私はダラしなくテレビを見るその姿に頭を下げた。

ゆっくりと頭を上げた時、
彼はいつの間にか座っていて、

「…行くのか。」

あの深い眼で、私を見ていた。

「はい、…行きます。」
「…ひとつだけ、聞いていい?」

坂田さんはそう言うなり立ち上がって、冷蔵庫の方へ行く。

「紅涙ちゃんさ、」

冷蔵庫の中からイチゴ牛乳を出して、コップに入れる。

なみなみと入ったその淡い色を、
私はどこか遠くを思いながら見ていた。

坂田さんはそれを一口飲んで、


「土方のこと、どう思ってんの?」


事務所の椅子に座った。

「…どういう、意味ですか?」
「そのままだけど?」
「…。」

唐突に、どうしてこんな話を…。

「…どうも、思ってません。」
「ダメ。それじゃ納得できませーん。」

そんな言葉に合わない冷たい表情で、私をさらりと見る。

「時間は短くても、お前らは浅い関係じゃなかったはずだ。」

また一口、
イチゴ牛乳を飲んで、

「何の感情もないわけがない。好きか嫌いか、断言できなくても言えるはずだろ?」

私の中を覗き見るような眼を向けた。

「ちなみに、俺は嫌いだよ?」
"あんなマヨラ君なんてね"

好きだとは、言えない。

それなら、
嫌い、だと言えばいいの?

「別に土方に言うわけじゃないから、さらっと聞かせてよ。」

違う。
どちらも、彼に足を掴まれる気がする。

「…、」
「言えねェんだ。」

坂田さんは「そっか」と呟いて、イチゴ牛乳を飲み干した。

「紅涙ちゃん、」
「…はい。」
「俺はお前が今から何をしに行くのかは知らねーけど、」

ガサガサと机を漁り、

「自身と矛盾したこと、やりに行くのは分かる。」
"お前の顔は本当に素直だな"

坂田さんは立ち上がって、私の前に立つ。

見上げるその背が、
土方と同じぐらいだと頭に過って、無意識に眉を寄せた。

「止めてほしい?」
「…え…?」
「行きたくないんだろ?本当は。」
「っ…、」
「まァこういうことって本当は土方の役だろうけど。」

行きたくない、なんて。
そんなこと、ない。


「俺の方が止めてやれる場合もあるだろうしな。」
"相手の都合上ね"


行く。

行かなきゃ、いけない。


みんなが、待ってる。

また子さんも、きっと。
私の帰りを、待ってくれている。

嫌なわけ、ないよ。

「…、お世話に、なりました。」
「…。」

もう一度、
私は彼に頭を下げた。

頭の上からは溜め息が降った。

「とんだ女だな、お前は。」

呆れるように笑い、

「じゃあこれ、餞別。」

そう言って差し出されたのは、名刺。

「俺の名刺。」
「これ…、」
「つまんねェことでもいいから、連絡しろよ。」
"一夜を共にした仲だろ?"

ニィと笑った彼に、胸が痛くなった。

気遣う言葉が、
今の私には痛いぐらいに染みる。

「…ありがとう、ございます。」

差し出された名刺を受け取った私の手は、震えていた。

「…それじゃあ。」
「ああ。…見送りはしねェから。」

坂田さんはそのまま動かず、私に軽く手を上げた。

私はそれに頷いて、

「…、」

何も言えずに、背を向けた。

それが、
ひとつ目の別れ。

始まりの、別れ。


「…、ふう…。」

夜風は少なく、
私の歩く速度で髪が揺れるだけ。

「…気持ち、切り替えなきゃ。」

霧掛かっていた気持ちが、より濃度を増したように重い。

思い返させるようなこと、聞かれたせいだ。

「…あれが策なら…、敵に回したくない人だな。」

私は星の見える空に苦笑した。


「さあ…、帰ろう。」

腰にささった刀に触れて、

「私の、場所に。」

誓うように、握り締めた。

あと少しで、
約束の23時。

この夜が明けた時、
私は何が変わっているんだろうか。

そう考えると、
走った後のように、苦しくなった。


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