30


明けない夜


「早かったんだな、お前。」

土方は一度深く煙草を吸って、静かに消した。

「少し、…早く出てしまって。」

当初の予定場所まで歩いてきた土方を見て、胸の中がザワめいた。

「…土方さんも、少し早いですよ。」
「ああ。早く来ちまった。」

苦笑して、私の方へ足を進める。
その背後の茂みには、仲間が身を潜めている。

彼は、知らない。

この後の惨事を。
この後の、終わりを。

「…。」

私は腰を上げた。
帯に挿していた刀が石段に触れて、僅かに音を立てた。

土方は「今さらだけどよ」と言って、

「こうして見るとこの屋敷、デケェよな。」

ゆっくりと見上げる。
黒い髪が僅かな風に揺れて、さらりと流れた。

月と星だけの明かりなのに、それは眩しいほどの光景で。

「…ここに、お前は居たんだよな。」

そう話す彼の横顔を見たまま、静かに私は目を閉じた。

この人を、
忘れたくない、と思った。

「全然知らなかった。女の情報なんて入って来なかったし。」

彼を作る色も、
彼が出すその声も、

きっといつかは風化して、
私の中にはぼんやりとしか残らない。

「気付かねェ間に、会ってたりすんだろうな。」

だからせめて、
今この時だけは留めておけるように。

そう思いながら、
私の中に、焼き付けた。

「だがその当時に会わなくて良かったよ。」
「…どうして?」

土方の声に首を傾げれば、
彼は屋敷の方にやっていた眼をこちらに向ける。


「お前を捕まえなきゃなんねェとこだろ?」


土方が苦笑する。
私はそれに言葉を失った。

立場は今も、変わらないから。

あの時よりも、悪くなってるのだから。

悟られないように、
素知らぬ顔で彼に声を掛ける。

「…帯刀して捕まる人って多いの?」
「だいぶ減ったな。だがそんな程度じゃすまなかったろ?お前らは。」

投げ掛けられた言葉に、私はまた首を傾げた。

「どういうこと…?」

"そんな程度じゃすまなかった"?
もっと重い罪があるってこと…?

「どういうことって…、」

土方は私を不思議そうに見る。
そのまま「お前…」と口にした。

「とぼけてんのか?」
「え…?」
「まさか、…知らないのか?」
「何を…?」

聞き返して、恐くなった。
ずっと感じていた私の知らない何かが、すぐ側にあることに。

私だけ知らない、仲間のこと。

「お前、ここに居たんだよな…?」
「…いた。」
「…そうか…。知らないのか…。」

土方はそのまま黙ってしまいそうな雰囲気。

聞かなきゃ…。
聞かなきゃ、意味がない。

こうして話している意味がない。

「…ねぇ。」
「なんだ?」
「あの夜…皆が殺された夜、」
「あァ。」
「真選組が駆け付けたのは…それと関係ある…?」

土方は私を見て、
少しだけ間を空けて頷いた。

「ある。」
「…聞きたい。」
「俺は構わねェ。だがお前はいいのか?」
「そんなに…酷いこと?」
「まァ…一筋縄ではいかねェ話だろうな。」

私は土方に「聞きたい」ともう一度言った。

「…あいつら、偽造してたんだよ。」
「偽造…?」
「ああ。身分証だのパスポートだの。」

うそ…。
知らない、そんなこと…。

「それを天人に高額で売ってたんだ。」

そんなこと…、
あいつらに出来るの?

どうして私は知らないの?
屋敷に居たのに、どうして…?

技術だって、
機械だって、
この屋敷には欠片も窺えなかったのに。

「だがそれも氷山の一角だろ。」
"まだ余罪はあると睨んでいる"

そう言った土方が、「いや、」と顔を振った。

「睨んでいたんだ。だが…。」

土方は屋敷の方を見て、眉間に皺を寄せた。

「あの夜、事情聴取していた天人がようやく吐いて。」
"駆け付けた時にはもう殺されていた"

分からない…。
これで少しは何か分かるかと思っていたのに。

余計に、分からなくなった。

偽造って、いつから…?
どうやって知ったの…?

それに、
高額で売買してたというのに、私たちの生活にゆとりはなかった。

…分からない。

何も、
何も分からない。

ずっと一緒に居たと、
ずっと一緒に育ったと思っていたのに。

私はどうして知らないんだろう。

「大方、失敗したんだろ。」

土方は険しい顔をしたまま、薄く溜め息を吐いた。

「依頼で揉めたか、別の件で揉めたか…。」
"殺されたのは確かなんだからな"

そんな…、

「そんなことで皆が殺されたの…?」

あんなに酷い方法で…、
あんなに惨忍な方法で…。

あれほどのことをしなきゃならなかったの?

「"そんなこと"じゃねーよ、紅涙。」

土方は私を見て、「重罪だ」と言う。

「何をするのも必要なもんなんだよ、身分証なんてのは特に。」
「でもっ、」
「だからこそ、あんな風に消されちまったんだ。」
"付いた移り香を見せないために"

土方はそう言う。
だけど今の私からすれば、
あいつらがしたことが、とても小さなことのようにすら思う。

…それだけ私は、
黒く汚れてしまったということなのだろうか。

「酷いよ…っ…、」
「…、…そうだな。」

土方は何かを言い掛けてやめ、小さく溜め息を吐いた。

「…でもそんなあいつらもよ、」

私を見て、僅かに目を細める。

「今思えば…隠してたんだろうな、お前のこと。」

"隠してた"…?


「お前を、守ってたんだよ。ずっと。」


私を…、
守ってた…?

「どうして…?」

どうして、私を守るの?

「私は…皆と同じ、…仲間だったのに。」

どうして、私だけを守ってたの?


『…、…紅涙、…生きろ…、…』


「こんなの…っ、余計に辛いだけなのに!」

ぐっと眉を寄せた私に、

「紅涙、それは違う。」

土方の落ち着いた声が降った。

「確かにお前は皆と同じ仲間だった。」
「…。」
「だが、お前は皆とは違ったんだ。」

"違う"…?

「お前だけ、違ったんだ。」

私、だけ…?


「お前は、特別だったんだ。」

『ああ…、やっぱり、似合う…。』

「ずっと、…特別だったんだ。」


ずっと、
私が守ってたつもりだったのに、

私はずっと守られていたの…?

俯いた私の視界に、

「…俺が、」

土方の手が映る。
それはそのまま頬に伸びて、私は促されるように顔を上げた。


「俺がお前を…特別なように。」


深い、
深い漆黒の瞳。

私に伸びる、彼の想い。

胸の奥で、
あの鈍い痛みが身体に響いた。

「…土、方…、」

だけど同時に、

それを感じた瞬間、
湧き上がったのは幸福感よりも罪悪感の方が強かった。

今からを思うと、
その眼に、

私なんかを映す価値なんてないのだから、

「…っ…、」

頬に触れたその手を、はらった。

「紅涙…。」
「…、」

…いつもそうなんだ。
いつだって私は、何も守れない。

「…、…ねぇ、」

手にすれば、大切で。
守りたくなるばかりで。

「…なんだ?」

守れるものを見定めることも出来ない。

「…約束、覚えてる?」

守りたいものは、
守れるものじゃないのに。

「…教えるよ、」

守れないなら、
守らない。

それに、
私は知らなきゃならない。
高杉さまの持っている情報を。


「私の全てを、…教える。」


そんな私が、出来ること。

そんな私が、

守れるものは、


『俺たちの、…分まで…、自由に、…』


"今"だけだ。


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