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ゼロ


「べ、別に早く戻ってきてほしいとかじゃ…なくて…。」

目の前の女は、そう言って目を逸らした。
畳の目を見ながら「あの」とか「その」を口にする。

「…。」
「…、え、えっと…、」

単純に見れば、
一人になるのが不安だという様子。

反抗して見れば、
何かを企み落ち着かない様子。

「…。」
「…。」

いや、違うな。
逆だ。

この女は、逆なんだ。

『ゼロですよ、ゼロに決まってるじゃないですか!』

山崎が俺に持ってきた紙。
三枚ほどあるカルテの複写。

「…煙草、」
「…え…?」

ポケットに手を入れれば、カサりと音を立てた。

書いていたのは、
記憶障害の原因と思われる事故と、治療の経緯。

加え、
女の名前と、その女の顔写真。

目の前の女とは違う、女の写真。

「煙草、買ってくるだけだ。」
"すぐに戻る"

俺の言葉に、女は僅かに首を傾げる。

そりゃそうか。
遅くなるとか、すぐに戻るとか。

さっき言ったことと矛盾しているのは俺。

「煙草…ですか。」
「ああ。」
「…分かりました。」

正直、
俺は分からなくなっていた。

自身のことも、
この女のことも。

複写のカルテを見れば、動かざるおえない。

何のために、嘘をついたのか。
刀は、本当に拾ったのか。

そして何より、


『あの夜、高杉の目撃があるんです!』
"そこから一人離れた女が居ることも!"


山崎が掴んできた、もうひとつの情報。

信憑性は低い。
夜間の上、街頭もない場所。
ましてや酔っ払いの通行人が情報源。

だが可能性がある限りは吐かせる必要がある。

それだけの時に来た女なのだから。

江戸のために、
俺たちが存在するのだから。

なのに俺は、何を戸惑うのか。

「…刀、」
「はい?」
「昨日の拾得物の刀。」
「…はい。」

山崎に言った、
"可能性はゼロじゃない"というのも可笑しな話だ。

俺は、
あの女に何を見ている?

俺は、
なぜ見ようとしていない?

「…そこに、あるからよ。」
「…。」

昨夜会ったこの女。
真っ暗闇に、たった一人でいた女。

刀を持って、
あの場に立っていた女。

それだけ。

「どうして…それを私に…?」

出会って、僅か数時間。

俺の何が、
お前を突き放せないのか。

「…いや、意味はねェ。」
「…、そうですか。」

こんな真似をして、
何に期待をしているのか。

「…。」

きっと、
この女はいなくなる。

「行ってくる。」

俺が出て行ったその隙に、ここから消える。

あの刀を持って。

それで、いい。

二度と、
俺の前に現れなければ。

『何言ってんですか副長!』
『副長が動かないなら、沖田隊長にでも言って俺たちが』

あの刀はきっと親の形見かなんかで。

この女は、
ただの女なんだ。

刀を守りたくて、こんな風になったんだ。

そうじゃないと、

「行ってらっしゃいませ、土方さん。」

こんな風に、
笑うわけがない。


---ピピピ…

屯所を出てすぐ、携帯が鳴る。

『山崎です。』
「…何だ。」
『あの女のこと調べたんですけど、』
「お前…、その件は」
『分かってます!分かってますけど…一応報告です。』

何度目かの溜め息をついて、「それで?」と声を掛ける。

『やっぱりあの女、怪しいですよ副長。』
「それが報告か?」
『いっいえ、違います!』

山崎は慌てた様子で『それが…』と続けた。

『江戸の住所が居住地として登録されてるんですが、そこはもう十年以上前に川になってまして。』

…。

『転居先の登録もなく、今現在は住所不定かと。』

住所不定、ねぇ。
その割には身なりが綺麗過ぎる。

着ていた着物も安いもんじゃねェ。
俺が見ても分かるほど、あれは上物。

「罪歴は?」
『…いえ全く。と言いますか、何もないんですよ。生きてるのか、死んでるのかすらも。』

山崎は『まぁ生きてましたけど』と続けた。

「…。」
『聞いてます?副長。』
「聞いてる。」
『怪し過ぎません?やっぱり何かあ』
「ご苦労さん。」
『あっ副ちょ』

電話を切って、携帯を仕舞う。

「怪しいのは…分かってる。」

『…もっと…、気をつけた方がいいですよ。』

「"気をつけろ"、ねェ…。」

何かが俺の中に、
するりと隙間から入る。

それは生温く、俺を惑わせる。

雨の前の、
あの風のような女だと思った。


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