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決起の夜


私と土方さんが抱き締め合っていた時間は、たぶん2分となかった。

「そろそろ帰るか。」

それでも、驚きと嬉しさで感じる体温は長く感じる。
それくらい、身体に沁みた。

「アイツらが探しに来たら、いろいろ面倒だからな。」
「…戻るんですか?副長に。」
「戻る。」

返事をする土方さんは、完全に割り切っている。
私はというと、やっぱり離れると寂しくて、
もうちょっとって…思ったりしていた。

「今は待たせてる奴がいる状況なんだ。出来るだけ早く動かねェとな。」
「……そうですね。」

土方さんは社殿に置いていた隊服を手に取る。
私に振り返ると、

「お前も――、フッ。」

何か言いかけた唇を、僅かに歪ませて笑みを作った。

「どうしたんですか?」
「言えよ。」
「え?」
「何か俺に言いたいことあるんだろ。」

隊服を自分の腕に掛け、私の答えを待つ。


『早雨君』


近藤局長の笑顔が頭によぎる。
"寂しい"なんて気持ちは、この場にそぐわない。

「聞いてやる。言え。」
「別に…ないです。」
「嘘つけ。分かりやすい顔しやがって。」
「…どういう顔ですか?」
「さぁな。」

『さぁな』って…

「それ、矛盾してますよ。わかりやすいって言ったのは土方さんなのに――」
「わかったわかった。落ち着け。」

いや、落ち着いてますけど。

「なら、あの場所まで着ねェことにしてやるから。」
「?」

土方さんがアゴで差す。
その先には、色褪せた鳥居があった。

「あそこを出たら俺は副長で、お前は"なんでも屋"だ。いいな?」

それはつまり…

「鳥居を出るまでなら、まだ何をしてもいい…ってことですか?」
「その言いかた怖ェな…。」

土方さんは頬を引きつらせ、「でもまァ」と続ける。

「そういうこった。」

…ふふ、優しいな。

「だが足は動かせよ?歩かねェとかはナシ。」
「わかりました!」
「よし、じゃあ行くぞ。」

まるで任務でも言い渡したように、土方さんはいつもの顔で歩き始める。
とりあえず私も後を追ったけど…

「……、」
「……。」

な、何すればいいんだろ!?
要は"副長じゃない土方さん"で接してくれるんだから、それっぽいことをすればいいだけだ。

じゃあ手を繋ぐ…とか?
…つまんないかな。
なら、もう1回キス……とか。
けど歩きながらっていう条件だもんね。
唇からズレて、鼻とか口の端に当たるかも。
下手したら唇をウーって突き出す羽目になって、「冷めた」とか言われたら…!

「なんだよ。」
「へ!?」

思わず声が裏返る。

「やけに静かだな。」
「あ、あー…はい。」
「何かやりたいことがあったんじゃねェのか?俺と。」

シレッとした顔で言う。
分かってて聞いているのかは、表情から読み取れなかった。
それくらい、土方さんは普段通りだ。

「やりたいことは…あるんですけど、」
「けど?」
「ありすぎるというか…出来なさそうというか……。」
「なんだそれ。」

鼻で小さく笑われる。

「だったら、とりあえず言ってみろよ。出来るかどうかは俺が判断してやる。」
「で、でも…」
「『でも』だの『だって』だの言ってると、終わっちまうぞ。」

その通りだ。
小さな境内だから、鳥居までの距離も近い。
さらには無言で半分ほどロスしたから、約束の場所まであと数歩しかない。

「じ、じゃあ言いますけど、」

私は土方さんの顔を見ず、迫る鳥居を見ながら口を動かした。

「…手を…繋ぎたいです。」
「そんなことか。」

また鼻で笑う。

「お前、俺を何だと思ってんだよ。」

土方さんが私の手を掴む。

「これくらい、やってやる。」
「…あと、」
「お、おう。」

続きがあったのかと驚く様子が、言葉で伝わる。

「……キスを…もう一度。」
「……。」
「……、」
「……そういうのは…だな、」
「はい。」
「そういうのは…、…言われて、するもんじゃねェだろ。」
「そうなんですか?」
「…おう。そういうもんだ。」

チラッと表情を窺う。
顔は半分背けられていて見えなかった。

そんな避け方をするのは予想外だったな…。
てっきり、ビシッと断られる系だと思ってた。

「…案外、シャイなんですね。」
「だっ、うっせェ!シャイじゃねェよ!」
「シャイですよ。好きとかも言ってくれないし。」
「だから!そういうのは言い過ぎるとアレだろ。こう、なんつーか、価値がなくなるっつーかよ。」
「大丈夫です、私にはちゃんと価値がありますから。さ、どうぞ。」
「誰が言うか!」

ジャリッと音を立てて土方さんが足を止める。

「見ろ。お前がつまんねェこと言ってっから、もう鳥居の前に着いたじゃねェか。」

…つまんないことじゃないのになぁ。

「じゃあ…私の名前を呼んでください。」
「名前?…早雨。」
「そうじゃなくて。下の名前。」
「……呼べって言われて呼ぶのは、」
「価値がありませんか?また。」

少し厭味に言うと、土方さんは不服そうに口を歪ませた。

「…そうじゃねェ。ただ改めて呼ぶのは……気恥ずかしいっつー話だ。」

顔をフイッと背ける。
こんなことくらいで、耳が少し赤くなっていた。

「ふふ…。やっぱりシャイだ。」
「うっせェな。今まであんまねェんだよ。こうやって、小せェことをガキみたいにすんのは。」

ガ、ガキ…。

「そりゃあ悪うございました。」
「別にお前が子供だとか言ってるわけじゃねーよ。むしろ、俺の方が…ガキだろ。」

土方さんは私と繋ぐ手に目を落とし、細く息を吐いた。

「俺は、お前が思ってるよりも出来てねェんだ。虚勢ばっか張って、なんとか今までをしのいだに過ぎねェ。」
「土方さん…」
「思えばガキの頃から変わってねェんだよ。そのせいでずっと近藤さんに…、…総悟に、迷惑かけてきたのに。」

「でも」と続ける。

「でもこの先は、もう少しマシな生き方をしたいと思ってる。」
「マシな生き方…?」
「ああ。もっと純粋に、傍にいる。仲間と…紅涙とな。」
「今、名前…」
「いちいち言うな。」

土方さんは目を逸らして咳ばらいした。

「名前を呼ぶのは、俺が副長じゃない時限定だからな。そうしねェと周りに何言われるか分かったもんじゃねェ。」
「ふふ、わかりました。じゃあその時は私も、十四郎さんって呼びます。」
「やっ、やめろ!恥ずかしい。」
「えー。名前を呼んでるだけなのに。」
「なんか…あからさま過ぎるだろーが。名前で呼び合うとか。」
「それも今までしたことがないんですか?」
「いやある。」
「え」
「あることにはあるが…、…状況が違うんだよ。お前とは。」
「そう…ですか。」

自分で聞いておきながら、モヤモヤしちゃったな…。

「とにかく、お前はそのままでいいから。」
「うーん…、」
「悩むな。そういうことにしとけ。いいな?」
「…わかりました。じゃあそういうことにしておきます、十四郎さん。」
「テメッ…!…ったく、仕方ねェヤツだな。」

土方さんは呆れたように笑う。
そしてやや身を屈め、私の唇にキスをした。

「!」
「この次は、黒縄島から帰って来てからな。」
「こくじょうとう?」
「とっつぁんと近藤さんが収監されてる島だ。獄門島と同じく、入ったら出られねェ地獄の島。」
「そんなところに…」
「ああ。だから一刻も早く連れ出さねェと。」

土方さんが繋いでいた手を離す。
恋人達の甘い余韻に浸る間もなく、隊服をバサッと広げて袖を通した。

襟元を正し、少し首のスカーフを緩める。

「それじゃあ、行くか。よろしくな、なんでも屋の早雨。」
「…はい、よろしくお願いします。」
「真選組に従事する契約、くれぐれも忘れんなよ。」
“勝手な行動したら許さねェからな”



そうして、
私は土方さんと共に屯所へ戻った。
皆は特に驚く様子も、冷やかす様子もなく、
ただ単に「遅かったな」とか「早く準備しろ」とか言って迎えてくれた。

当然だ。
私が真選組を辞めると宣言し、
そのあと本当に除隊することとなった一連の流れは誰も知らない。

沖田隊長も山崎さんも斉藤隊長も、みんな私が真選組に戻ってきたと思っている。

「遅ェですぜ、紅涙。」
「早雨さんの隊服も準備できてますよ。早く着替えてくださいね!」
「あ、いえ、私は…、…。」

言葉を濁し、土方さんを見る。
すると沖田隊長が「何でさァ」と低い声で言った。

「まさか紅涙。まだ辞めるとか、くだらねェこと言ってんですかィ?」
「辞めるというか…、」
「もう辞めてる。」

土方さんはハッキリと告げた。
聞いていた全員が目を丸くする。

「はァ?何言ってんでさァ。」
「も、もー副長。笑いづらいボケはやめてくださいよ。」
「ボケてねェよ。早雨は俺が辞めさせた。」
「な…何でそんなこと……」
「このまま真選組で雇い続けるわけにはいかねェからだ。隊士である必要がない。」
「テ、メェェッッ…!」

沖田隊長が殺気立ち、その全てを土方さんに向ける。
私はすぐさま駆け寄って、今にも胸倉を掴み上げそうな腕を抑えた。

「沖田隊長、違うんです!」
「何が違うんだよ!」
「私は真選組を辞めましたけど、新たに契約してもらいました。なんでも屋として。」
「なん…でも屋?…どういうことですかィ。」
「本業です、私の。…今までは事情があって、真選組の隊士をしていました。」

傍で聞いていた山崎さんが気まずそうにする。
斉藤隊長も目を伏せていて、
その顔つきから、知らないのは沖田隊長だけに思えた。

「これまでと形は違いますが、私も一緒に近藤局長を助けに行くことに変わりはありません。だから、……、」

私は頭を下げ、

「ここでまた、よろしくお願いします!」

これまでの詫びと、
これからの気持ちを込めて、みんなに伝えた。

少しの沈黙の後、沖田隊長が、

「俺に秘密たァいい度胸でさァ。覚悟しなせェ、こき使いまくってやる。」

そう言って、ニタリと笑み、
山崎さんは「水臭いですよ〜!」と笑った。
斉藤隊長はスケッチブックに『おかえり』と書いて二重の訂正線を引き、
その下に『今日からよろしく』と書いて目を細めてくれた。

そんな皆の隅で、土方さんは静かに、
それでいてどこか寂し気に、微笑んでいた。

なぜそんな目をしていたのか。
それは、黒縄島へ渡る船で知ることになる。

だけどもしかしたら、
本当はもっとずっと先の未来を見て、そんな目をしていたのかもしれない。


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