48


鬼の名に


「はァッ!」

打ち付ける私の一太刀を、

「甘いな。」

土方さんは軽々と受け止める。
どこをどう狙っても、何ひとつ当たらなかった。

「ッ、ハァっ、ハァっ、」

強く打っても、
畳み掛けるように打っても、全く手応えがない。
また話している最中に足を掬えば…
なんて汚い手も、さすがに二度の機会はなかった。

ただ互いの竹刀がぶつかっては弾ける。

けれど、

「早雨の力はこんなもんか?」

土方さんからは本気さを感じなかった。
私ごときに出すまでもないんだろうけど、
それでも私を負かさなければ、この決闘は終わらない。

ならなぜ早く終わらせないの…?

私達には時間がないのに。
出発の夕刻は、すぐそこまで来ている。

なのに、どうして……

「怪我しねェうちに降参しろよ。」

ああ…そうか。

「……、」
「なんだ?急に手ェ止めて。」

そういうことか。
土方さんは、
『時間だ』と言って、この決闘を投げ出すんだ。
そうすれば私を打ちのめすこともなく、別れられる。

私に、"傷"をつけずに済むから。

「…やってくださいよ。」
「ああ?」
「やるなら、ちゃんとやってください!」
「早雨…。」

尋常に、って言ったくせに。
ちゃんと向かい合うって、言ったくせに!

「どうせ私が勝てないと思ってるなら、長引かせないでくださいっ!」

このままだと確かに、目に見える傷は負わずに済むかもしれない。

でも結局は連れて行ってくれないんでしょう?

それなら心に…記憶の中にずっと残る傷よりも、
存分に打ちのめされた傷の方が、まだマシな気がする。

前を向こうと思える日が、少しばかり早く来るような気がする。

「真剣に、っ、打ち込んでくださいよ!」
「…失礼なヤツだな。俺は真剣に――」
「嘘ばっかり!」
「……。」
「土方さんは全然っ…、っ、全然真剣じゃありませんっ!」
「…、…そんなことしたら、本当に終わっちまうだろうが。」
「!」

それは…、…どういう意味?
本気で、時間のせいにして逃げるつもりだったってこと?

それとも…、
私との時間を…終わらせたくないってこと?

「…今さら、」

そんなの、…、

「今さら…、…何言ってるんですか。」
「……。」

私だって、終わりたくありませんよ。
ずっと土方さんといたい。
そのために、勝とうとしてる。

…でも。
でも土方さんは違うんでしょう?

「終わらせるために…、決闘なんてことをしてるんじゃないんですか?」
「……そうだったな。」

忘れたとでも言いそうな口調で肩をすくめる。

「…なら、」

そう言って、土方さんは咥え煙草のまま竹刀を構えた。

「最後に、何か言いたいことはあるか?」
「……。」

その立ち姿に、終わりを悟る。

これまでの時間に、
…これまでの私達に。

「…なんだか私、処刑されるみたいですね。」
「縁起でもねェこと言うな。」

次の一太刀で、終わるんだ。

「言いたいことはないのか?」

言いたいこと……。

「……、…私を置いていくと後悔しますよ。」
「この期に及んでスゲェ売り込み文句だな。」

ククッと喉を鳴らし、土方さんが笑う。
わかってはいたけど、心に響いている様子は全くなかった。

どうしていつもこの人はこんなに余裕があるんだろう。
ずっと私が土方さんを好きでいると思っているから…?

「う、浮気だって、しちゃいますから!」
「しねェよ。向こうでする暇ねェし。」
「違います!わ…私が、ですよ。」
「早雨が?……そうか、なら仕方ねェな。」

えっ…、
何よ…それ。
ここを離れたら、私なんてどうでもいいってこと?

「浮気でも何でも、好きにしろ。」
「っ…!」

ひどい…、
その言い方は、っ…さすがに傷ついた。

私は無言のまま土方さんと距離を詰め、

「?どうした。」
「……。」

不思議そうな顔を見上げると、
その口に咥えていた煙草を取り上げて踏み消した。

「っおい!」
「絶対、連れて行ってもらいます。」
「…なんだよ、諦めたんじゃなかったのか。」
「諦めてません。むしろ今ので、もっと勝たなきゃいけないと思いました。」

私は今の今まで、性懲りも無くまだ少し期待していた。
土方さんは負ける前提で、私に決闘を申し込んだんじゃないかって。

副長という肩書きの元、
こういう流れが必要なんだろうなと、都合よく考えていた。

だけど、違った。

「本当に、…私を連れて行く気はなかったんですね。」
「始めからそう言ってるだろ。」

温度差が目に見える。
一体いつから差があったたんだろう。

私が、一方的に好きだったのかな…。

「お前には悪いと思ってる。」

恋人という名の関係でも、私の片想いだったのかもしれない。

もしそうなら…、…笑い話にもならないな。

「…土方さん、」
「ん?」
「……もし、…もし、ですよ。万が一にでも、私が負けた時は……」

『万が一』
…いや、本当は分かってる。
私が勝てないことは、決まってる。

「なんだよ。」
「…たとえ、私が残ることになっても、…っ、…待っててなんて、あげませんからね…っ!」

土方さんは、置いていく私に期待しているのかもしれないけど、

何年、何十年か経って江戸へ帰ってきた時、
ずっと待ってましたなんて言う自信は、私にはありません。

「…いいよ。」

…え?

「俺なんか待つな。」

土方さんは僅かに笑みを浮かべた。

「お前はお前の道を進めばいい。」
「っ!…き、嫌いにだって、…なってるかもしれませんから。」

何度もこの瞬間を思い出して、
どうしてって憎しみを募らせて、土方さんのことを嫌いになるかもしれない。

「それでもいい。」
「……、」
「それが早雨の気持ちなら、俺は何も文句言わねェよ。」

……、

「そう…ですか。」

少しずつ、心が灰色になっていく。
むなしくて、悲しくて。

限りなく、私の片想いで。

「まだ気は変わらねェのか?」

土方さんが手元をアゴでさす。
私は竹刀を強く握り締めた。

「…変わりません。」
「そうか。」

懐に手を伸ばし、新しい煙草を一本取り出す。
咥えようと動かした手を止め、おもむろに顔を上げた。

「お前はやっぱり一筋縄ではいかないな。」
「……。」

口を結ぶ私に、クスッと笑う。
何を思ったのか、吸おうとしていた煙草をしまった。


「諦めの悪い、イイ女だ。」


…そういうこと…言わないで。
こんな時に、普段は言いそうにないこと…言わないでくださいよ。

本当に…、っ、
本当に別れを告げられてるみたいじゃないですか…っ。

「土方さんなんてっ…っ、嫌いです!」

泣かないつもりだった。
なのに、私の目には涙が込み上げる。

「土方さんなんてっ…」
「好きだよ、俺は。」
「っ!」

今まで、一度も言ってくれなかったのに。

「お前が好きだった。」
「こんな時に…言うなんて…っ…」

置いて行く私に、
片想いのはずの私に、言うなんて…っ

「っぅ…、」

まぶたを閉じなくても、涙が落ちる。
胸が痛くて、潰れてしまうんじゃないかと思った。

「…やるぞ。」

土方さんは私を慰めることもなく、

――ザッ…

砂利を踏みしめた。
空気が止まるような感覚に焦りを覚える。

…負ける。
負けられないのに、

「っ、いやだ…っ、」

負ける。

間合いは一気に縮んだ。
あっという間に、目の前に土方さんがいて、


「ごめんな…紅涙。」


弱く眉を寄せ、
そう言った後、腹部に強い衝撃を受けた。

「うっ…」

身体が、後ろへ傾いていく。

「っ…い、や…、」

目に映る世界が、ゆっくりと反転していく。


『膝か背中が地面についた時点で勝負ありだからな』


「嫌だ…っ、」

負けたくない。
置いていかれたくない。

「離れたく…っ、ないっ」

逆さまの世界が滲んで見えた。
歪んで、見えづらくなって、

どうにか立ち続けようと足に力を入れたけど、力の入れ方が分からなかった。

「土方さん…っ、…、…。」

視線の先に土方さんはいない。
掠れた声で呼んでも返事はない。

幕引きのように、視界の端から闇が迫ってきた。

頭がぼんやりする。
周りの音も聞こえなくなって、
いつしか痛みすらも感じなくなった頃、私は意識を手放した。

けれども、

"行かないで"
"置いていかないで"

真っ暗な世界に、その言葉だけが巡り続ける。
そのせいで、幻聴すら聞こえた。


「…俺に、こんなことさせやがって。」


たぶん本物の声じゃない。
だって、

「お前は何か勘違いしてるみてェだが、」

だってまた、

「浮気の話。するなら仕方ねェっつーのは、俺に文句を言う権限がないからって意味だからな。」

私に都合の良い内容だもの。

「気持ちが浮つくっつーことは、何かしらそいつに心が揺らいでるわけだろ。寂しいとか疲れてるとかでよ。」

…そうかもしれませんね。
何かに耐えかねた時、寄り添ってくれる人に心は揺れてしまうのかもしれない。

「そういう風にしちまったのは俺で、傍にいないのも俺なんだから…浮気されても仕方ねェだろって話だ。」

ふふ…、ほんとに土方さんなら言いそうだな。
真面目で、うまく相手に伝わらなくて……

「ほんとにお前は俺をわかってねェな。」

…そう…なのかな。

「まァ俺達には分かり合う間すらなかったのかもしれねェが、…俺だって、…鬼じゃねェんだ。」

土方さん…?

「戻れる日も分かんねェのに…、……離れたいわけねーだろ…。」

あ…、…。

ポツッと小さな重みが手の甲を打つ。
それは私の手首の方へと伝い、流れ落ちた。

「…いけねェな。近藤さんの一件から、涙もろくなっちまった。」

苦笑混じりそう言って、


「……せめて、お前の思いのままに暮らせよ、…紅涙。」


土方さんの声は、
黒い背景に溶け、私の元から消えてなくなった。

そこから果てしなく無が続く。
色も音も、何もない。

おそらくこれが、
これから始まる私にとっての江戸で…

土方さんのいない世界なんだと、
空っぽになった心で、ひとり知った。


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