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疑心と暗鬼


「……わかった。早雨、」
「…はい。」
「悪いが、お前は真選組に――」

“ふさわしくないから辞めてくれ”
その言葉を受ける覚悟は出来ていた、のに。

「っ、おい、アレ!」

土方副長が、目を見開いて私の後方を指さした。

「あの、話の続きは…」
「そんなことよりも、あっちの方が重要だ!」
“後ろを見てみろ!”

私にとっては、こっちもかなり重要なんだけど…。

渋々、土方副長の指先を辿る。
振り返った先には、のんびりと歩く1匹の猫がいた。


体毛は、赤茶色。


「あれって、そよ姫様の!?」

猫が足を止めてこちらを見る。
暗くなり始めた空の下、ぎらりと瞳を光らせた。

「ち、ちょっと動かないでね〜…。」

怯えさせないよう、忍び足で近づく。

どうしよう…、
このままだと絶対に逃げられる。

何か策を考えなきゃ。
猫の好物を持ってなくても、
捕獲ネットがなくても捕まえる方法…

……そうだ!

「土方副長、」
「なんだ。」
「少しお願いしてもいいですか?」

猫に視線を向けたまま、私は腰の刀を鞘ごと抜き取る。
それを、後ろにいる土方副長の方へと差し出した。

「お前、まさか猫を…!」
「違いますよ!この刀で壁を叩いてほしいんです。」
「壁を?詳しく話せ。」
「猫の条件反射を利用します。土方副長が鳴らす音でビックリしている隙に、近づいて捕獲しようかと。」
「それは無理だろ。相当速く走らなきゃなんねェ。」
「はい。でも、やってみます。」
「……。」

できるか分からない。
けれど、今はこの方法しか思いつかない。

「何もせずに逃すくらいなら、少しでも捕まえる可能性に賭けたいです。」
「……嫌いじゃねェよ、早雨のそういう考え方。」
「えっ」

思わず振り返ろうとすると、「猫から目ェ離すな!」と声が飛んでくる。
同時に、私の手から刀の重みが消えた。

「お前の無謀な作戦に乗ってやる。」
「あ…ありがとうございます!できるだけ大きい音を一撃、お願いできますか?」
「了解。」

土方副長が少し離れる。
思惑通り、猫の視線は土方副長を追いかけ、私から外れた。

「…いくぞ。」
「はい…!」

ガチャンッ!と大きな音が鳴る。
飛び上がって驚く猫へ、私は一気に距離を詰めた。

そして、

「ほ…捕獲しました!!」

無事に赤茶色の猫を捕まえた。

「よくやった。屯所に連れて帰るぞ。」
「はい!じゃあ猫を…」

両脇を持ち、抱き上げる。
途端、猫が暴れ出し、

「いっ…!」

鋭い爪が、私の頬を引っ掻いた。

「大丈夫か?」
「は、はい。油断してました。暴れるのも当然ですよね。」
「そりゃそうだが…早雨、引っ掻かれた傷から血が出てるぞ。」

そう言って、土方副長が私に顔を寄せる。

えっ。
ちょっと近…

「ニャァー!」
「うぉっ!」

両脇を抱えられたままの猫が、
土方副長の頬に、薄らと血の滲む引っ掻き傷を作った。

「だっ大丈夫ですか!?」
「こ、のっ…猫やろォォ!!」
「フニャーー!!」

一人と一匹が睨み合う。

「おお落ち着いてください!あっそうだ、私のポケット!」
「あァ?」
「私のポケットに手を入れてください!」
「なんでそんなこと…」
「いいから!」
「…わァったよ。」

土方副長が、私の右ポケットに手を入れる。

「なんかあんぞ。」
「取ってください。」
「一体何をさせた…、……あ。」

ポケットから出した手に、絆創膏が握られている。
真選組に入ってから小さな怪我が増えたので、私が普段から持ち歩いる絆創膏だ。

「それ、使ってください。」
「…いい、わざわざ貼らなくても。」
「そう言わずに。血が出てますし、放っておくとバイ菌が入りますよ。」
「だったら、早雨もだろ。」
「私も後で貼ります。」
「…仕方ねェな。」

土方副長が絆創膏の包装を破る。
シートから剥がすと、それを私の方へ近づけた。

「え!?」
「じっとしてろ。」
「わ、私じゃなくて、土方副長にっ」
「そうは言っても、自分の傷の場所が分かんねェから。」
“とりあえず、お前だけでも貼っとけ”

私の頬に、しっかりと絆創膏を貼り付けてくれる。

「よし、いいぞ。」
「は…はい……、」

“ありがとうございました”
それすら言えないほど、私の頭の中からは言葉が消えていた。

ただ、心臓だけは壊れそうなほど動いている。
たぶん恥ずかしくて照れてるから…だと思う。

「それじゃあ帰るか。」
「っ、ま、待ってください!」
「どうした?」

傷を負ったのは、私だけじゃない。

「…猫、持ってください。」
「はァ!?それはお前の仕事だろォが。そもそも、さっき俺が引っ掻かれたのを見てなか――」
「お願いします!」
「…ったく。」

土方副長に猫を渡す。
思いの外、先程まで苛立っていた猫は大人しかった。

「なんだよコイツ。もう諦めたのか?」

両脇を持ち、猫の顔を見ながら身体を揺する。
私は自分のポケットから絆創膏を取り出した。

「他にも引っ掻かれてたのか?」
「いえ、私じゃなくて…土方副長です。」

絆創膏を土方副長の顔へ近づける。

「お、おい待て。俺は別に…」
「じっとしててください。」

さっき言われたことと似たようなことを言い、
私は土方副長の頬にある傷に絆創膏を貼った。

「よし、出来ました!」
「…いいっつってんのに。」

不満顔で私を見る頬が少し赤い。
土方副長も恥ずかしくて照れてるのかな?

「ふふ。お互い様ですね。」
「どういう意味だよ。」
「あとで貼るって言った私に貼った仕返し…?」
「“仕返し?”じゃねェ!つまりはテメェ…上司の善意を仇で返したわけだよなァ?」
「仇!?とんでもないです!私も善意の気持ちで絆創膏を…」
「いい度胸してんじゃねェか。」

聞く耳を持たず、土方副長は意地悪な笑みを浮かべて腰を屈めた。

「何するんですか?」

猫の後ろ足が地面につく。

「早雨。もう1回、江戸を捜し回りたいよな?」
「!!」

まさか猫を放す気!?

「そそそそれだけは許してください!絆創膏は剥がしますから!」
「いや、わざわざ剥がせとまでは言わねェが…」

「随分と楽しそうだな、二人とも。」
「「!」」

声の方を見る。

「近藤局長!」
「お疲れさん、早雨君。」

隊服姿の近藤局長が軽く片手を上げた。
心なしか、頬が腫れてるような気がする。

「トシもお疲れ!」
「アンタこんなとこで何してんだよ。」
「なァに、ちょっとしたパトロールだ。」

フフンと鼻を鳴らす。
土方副長は溜め息を吐いた。

「今日の市中見廻りは一番隊のはずだろ。」
「いやいや、こういうのは自主的に参加していかないとと思ってね。」
「勉強になります!近藤局長は真選組の鏡です。」
「ダッハッハ!わかってる〜、早雨君。」
「何も分かってねェよ…。」

やれやれといった様子で首を振った。

「ところでトシ、その猫はどうしたんだ?飼うの?」
「違ェよ。これは姫様から頼まれた猫。」
「“頼まれた”?」
「ほら、とっつぁんから下りてきたやつ。捜してくれって言われただろ。」
「ああ、アレ!」

ポンと手を打つ。

「三番隊に任せたが、二人で捜してくれてたのか!」
「俺は何もしてねェよ。早雨が見つけたんだ。」
「あっ、でも捕まえるのは土方副長に手伝ってもらいました。」
「なるほど。それで二人して引っ掻かれたと。」

近藤局長が自分の頬を指して笑う。
土方副長は、気まずそうに頭を掻いて「まァそういうことだ」と言った。

「トシが顔に絆創膏か。余程の時くらいしか貼らないからレアだな。」
「大袈裟にしすぎなんだよ、早雨は。」
「そんなことありません。無意識に触って菌が入ると、治りも遅くなって…」
「わかったわかった。だから大人しく貼られてやっただろ。」
「貼られてやったって…っ、もう!」
「ほぉ、こりゃァ中々の組み合わせじゃないか。」

近藤局長が何か納得した様子で、うんうんと頷く。

「早雨君、一つ提案があるんだが…。」
「?何でしょうか。」
「三番隊を辞めてくれないか?」
「えっ…」

なに…?
急に…どうして。

「見たところキミは隊士よりも別の素質を生かした方が…」
「近藤さん、勝手に話を進めんなよ。」
“当の本人が付いてきてない”

そう言って、二人が私を見る。
土方副長に言われた通り、全く話を呑み込めないでいた。

だって今の今まで笑って話してたのに、

どうしていきなり辞める話になったの…?

気さくに話しすぎたせい?
土方副長の頬に絆創膏を貼ったせい?

それとも…、
その全てを理由にして、

「どうした、早雨。」
「早雨君?」

辞めさせるタイミングを見計らってた?

「っ…、」

依頼人は近藤局長?
もしくは…


近藤局長“も”?


「……、」
「おい、早雨。本当にどうし――」

チカッと車のヘッドライトに照らされる。
目を細めた土方副長が、顔色を一変させた。

「…近藤さん。」
「ああ。」

二人が真剣な面持ちで頷き合う。
なんだろうと思う間もなく、私達の前に黒塗りの車が停まった。

「よォ〜。頑張ってるかァ、お前ら。」

後部座席の窓からサングラスをかけた年配の男性が顔を出す。

「とっつぁん、お疲れ!」

近藤さんが私の前に出た。
その隣に、土方副長が並ぶ。

「こんなとこを通るなんて珍しいな。」
「出先からの帰り道だ。オジさんも大変なんだよォ。」
「あ、あの…」

二人の背中が邪魔で会話に入れない。

「少し横に…」
「早雨、」

土方副長はチラッとだけこちらを見て、小声で言った。


「お前は先に帰ってろ。」


え…?


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