まどろみと心中
傘の上で雨が跳ねる。パラパラと軽い音が絶え間なく耳に届く。
お気に入りの傘をさしながら、私はなんとなく川にやって来ていた。
インドアな私は基本的に川には用は無い。今だって、別段川に用があるわけでは無い。こんな雨の日は川に行く気どころか、外出する気すら薄れる。だが私には川へ行くことしか頭になかった。
思わず足が早まる。土手の草むらの緑の中に、ぽつんと雨の中でも見えた赤。
彼は、虚ろな目で雨を降らす空を見上げていた。




錬金術によって、強い思いを抱く古人の魂を転生させ、文学を守る。それが私に課せられている仕事である。
ここにいる彼もまた、そうして現代に転生した文士の1人だ。
太宰治。誰もが一度は名を聞き、作品に目を通すであろうこの国が誇る作家の1人。
だが彼には1つ問題があった。自殺癖だ。
一癖も二癖もありその上色濃い生前のエピソードをもつ者ばかりである文士達ではあるが、その中でも彼の幾度となく行われた自殺未遂は彼を語る上で外せないものとなっている。
三つ子の魂百までどころか死後まで続いてしまったのだろう。いつもは道化の皮を被り明るく努めているが、潜書で深手を負った時や嘗ての自分を思い出した時、彼は幾度となく「死にたい」と口にする。そして、何故か決まって雨の日にこうして自殺しにどこかへフラフラと行ってしまうのだ。
彼のことを、私は『大きな子供』のような面があると感じていた。自己顕示欲が強く、孤独を嫌う脆い心。母親に褒められようとする幼い甘え盛りの子供を感じていた。尤も、彼のそれはそんな可愛らしい比ではなかったが。



「太宰先生、帰ろう?」

私の声にも、太宰先生は猫のような金色の目を空に向けたままだった。
雨でなのか、それとも川に入ったのか。先生の服はびしょびしょで、朝はふわりと綺麗に整えられていた綺麗な赤い髪も濡れてしんなりしている。

「ねぇ、桂花ちゃん。」

力なく、虚ろな声が掠れている。いつもの得意気なのは一体どこへいったのか。

「帰ろう、太宰先生。オダサク先生も坂口先生も待ってる。」
「ねぇ、桂花ちゃん。……桂花ちゃん。」

虚ろな猫の目がこちらを向く。目が会うなり、彼の手が伸びて来る。肩をガシリと掴まれ、咄嗟のことに自分の身体はぐらりと揺れ、そのまま重力に伴い草の上に倒れた。傘は手から落ちて転がり、背中には草についた雨の雫が染み込んでいく。遮るものを失った身体は容赦なく雨に晒された
肩を地面に押し付けていた手はゆっくり首へと伸びる。少し力が入り、思わず目の前の男を凝視する。

「桂花ちゃん、死のう。俺と死んでよ。好きなんだ。一緒に、死んでよ。」

ポタリと雨に混じって落ちて来た暖かい雫と告白。目の前の彼は、端正な顔を歪めて、しっかりと、私の方を見ていた。




あれからどうしたのか、あまりよく覚えていない。
ただ、2人とも濡れていたから傘をさす意味が感じられず、2人そのまま帰って来た。
おかえり、と助手をしていた坂口先生がバスタオル片手にエントランスで迎えてくれた。
あんまりにも遅いからお風呂冷めてしもた、とオダサク先生が済まなそうに笑ってくれた。
太宰先生の自殺未遂は今に始まった事ではない。だから、2人も慣れてしまったようだった。

「おっしょはん、太宰クンはワシらが見張っとくから、お風呂入ってき。そないなカッコでおっしょはんが風邪引いてもうたら、ワシら森先生に怒られてまう。」
「ま、そん時は太宰を殴るけどな。とりあえずあんたは風呂入ってあったまって着替えろ。にしても珍しいな、あんた迄濡れてるなんて。」

坂口先生から渡されたバスタオルで身体を拭きながら、2人に太宰先生を預ける。太宰先生は何も言わず、捨て犬のようにされるがままオダサク先生に身体を拭かれていた。
私なんかより、生前からの仲である無頼派の皆さんに任せた方がいい。そう思って、私は自室に向かった。



きっと、今日は夏の癖に一段と寒いことに気を使ってくれたのだろう。
『勝手に部屋にはいりました。ごめんなさい。お風呂沸かしておきました。』と、テーブルの上に置かれたメモ。幼い筆跡であることから、あの子達だなと見当がつく。
確かに少し緩かったが、冷えた身体を温めるには十分で。
いくらかさっぱりして、ぼうっと椅子に座っていれば、矢張り思い出すのは今日のこと。
彼が自殺騒動を起こすのは初めてではない。私が探して、迎えに行くのも初めてではない。『心中しよう』と誘われ、序でに殺されかけるのも初めてではない。
ただ、『好きだ』と言われたのは今日が初めてだった。
彼は誰を見ていたのだろう。あの真っ直ぐな視線は、私に誰を重ねていたのか。

「桂花ちゃん、いる?」

軽いノックの音がして、か細く弱い声が聞こえた。急いでドアを開ければ、目元を赤くした件の方が立っていた。
恐らく何をしでかすかわからないからだろう。私服用のアスコットタイは無頼派2人によって回収されたらしい。
彼もまた風呂に監視付きで入れられ、温まったのだろう。
もっと言うと、彼の目は潤んでいる。声も湿っている。なのに頬に筋の跡が無いのは、きっと風呂で2人に話を聞いてもらいながら泣いたからに違いない。これもよくあること。今更珍しくも何とも無い。
なのに、今日は一段と気まずい。私の感覚的に、とても気まずい。
勿論理由は、彼の言葉だ。

「桂花ちゃん、話、聞いてもらってもいい?」

弱々しい言葉。いつもの戯けたものじゃ無い。暗い、悲しいトーンだ。
どうぞと部屋に促し、椅子に座ってもらう。偶にこうして文士が相談事をしに部屋に来るので、それ用に椅子は2つ元々ある。
私は座ってから、彼の目を見た。金の猫のような目が揺れ、ぽろりと1つ、雫が落ちる。

「桂花ちゃん、おれ、桂花ちゃんに、迷惑かけたくない。好きだから、好きだから、迷惑かけたくない。」

1つ、また1つと雫が落ちて行く。しやくり上げる声とともに、振り絞るように紡がれる言葉を聞き逃さないように。窓を打つ雨の音も、誰かが廊下で話す声も、耳に入っているはずなのに気にならない。残るのは太宰先生の音だけだ。

「1人で死ぬのは寂しいんだ。でも死にたい。死のうとすれば、あんたは暗い顔をする。」

彼は殆どいつも通りの言葉を紡ぐ。少しぎこちなくなりながらも、いつも通り椅子ごと近づいて、左手で彼の手を握り、右手で背中をさする。
でも、今日は違った。

「そんな顔、するなよ。俺のためにそんな顔、するなよ。俺なんかのために、そんな顔、しないでよ。」

ぼろぼろとその綺麗な顔立ちを歪めながら、太宰先生は私の左手を振り払って私の頬に触れた。頬に触れて、撫でて、そのまま首に伸びて行く。太宰先生の体温が、少しくすぐったい。けれど今迄に無い流れに、只々困惑するしか無い。

「俺、桂花ちゃんに生かしてもらって、安吾ともオダサクともまた馬鹿やれて、佐藤先生に償う機会もできて、芥川先生にも会えて幸せな筈なのに、幸せ者なのに!
すぐ死のうとする馬鹿なんだ。死にたいって思っちゃう馬鹿なんだ。死ぬことしか出来ないんだ!」

いつしか首にあった手は背中に回って、そのまま太宰先生が倒れ込んで来る。私の首元に顔を埋め、わんわん年甲斐もなく泣いている。
仕方なく、行き場を失っていた手を彼の背に回し、幼子にするよう軽く叩く。暫くすれば彼は落ち着き、そのまま微睡みの中へと落ちようとしていた。

「桂花ちゃん……。」
「なに?」
「心中しよう。それで、桂花ちゃんは、俺のために死なないで。桂花ちゃんは俺が死んでも生きて。……俺が昔、そうした、みたいに……。」

朧げな意識の中、彼は伝えたいことを言うだけ言って、そのまま眠ってしまった。仕方なく、そっと彼をすぐ近くのベッドへと頑張って寝かせる。
世話がやける幼子のようだと思いつつベッドに腰掛け、すやすやと泣き疲れて寝ている大人の男を見つめる。

「ごめんなさい……。」

独り言のように漏れた言葉。私はこうなるたび、寝ている彼に向かって謝罪を繰り返す。
私が転生させなければ、彼は苦しまなかった筈だ。死にたいと言う願いを叶えられないのは、結局は自分のエゴだ。望まぬ生を歩ませる私には、彼を自らの手で引き留める資格はない。私にはそんな権利はない。寧ろ彼は何故私を怒らないのか。『何故己を生かすのか』と罵ってくれればいいのに。そう思いつつも、言われる勇気がなくて、怖さで近づけない。なんて馬鹿らしい。

「生きろなんて……貴方を置いて生きろなんて、薄情な人。」

嘗て彼がしたように、心中に失敗して自分だけ生き残る。そんなこと、出来ない。寂しがり屋な貴方は、そんなことをしたら傷つく癖に。
莫迦な人。彼は、莫迦な人だ。これだけ傷つきやすい癖に、自分が傷つく道を選ぶのだ。
彼は確実に私を傷つけないようにしている。優しい、莫迦な人。




そっと、彼の首に手を伸ばす。私がされたように、見様見真似で両手を添えてみる。
このまま力を込めたら、彼は目覚めるだろうか。どれくらい力を込めたら、人は死ぬのだろう。いや、そもそも彼らの人体の強度は本物の人間と同じなのだろうか。
色々なことが頭を巡って、結局なにもせずに首から手を離す。

「莫迦。」

私が殺したいのは、自分だ。
嗚呼今なら彼の苦しみが理解できる気さえする。
私はとっくに太宰先生の気持ちに気づいている筈だ。彼が心中を求め、その癖生きてくれなんて望むあの時の目は、ちゃんと自分を見ているし、普段の様子から彼は自分を悪く思ってはいないと自信を持って言える。寧ろかなり好意的だ。でも怖くてずっと眼を逸らす。本当は心中に誘われるのは心を許されたという証だと思って、浮かれている自分がいる。なのに取り繕って遇らっている。
そうやって気づかないふりして、彼を傷つけて、彼を苦しめて。生きる価値がないのは自分だ。人を傷つけて自分を守った気になっている自分だ。思いを寄せられる資格もない。思いを寄せる資格だってない癖に、寄せられる思いに気づかないふりをして。酷い奴。
この気持ちがいっそ消えてしまえば。その罪悪感ごと己を殺せたらどれだけ楽だろうか。

「……馬鹿らしい。」

馬鹿馬鹿しくて笑えてきた。くだらない。何の救いにもなりはしない。乾いた笑みが静かに漏れた。
私には彼を殺すどころか、己を殺す勇気すらない。私達のあり方にだって自信を持てない臆病な人間だ。いつだって貴方を生かすことに疑問を感じてしまう愚かな女だ。




雨の音が一段と強くなる。ざあざあと鳴る音に、次第に自分も微睡みへと引きずりこまれて行くのを感じた。
ぽすんとベッドに倒れこみ、太宰先生を見つめる。静かに眠る彼は死んだようにも見える。
雨の音に誘われるように瞼を閉じる。

目が覚めた時には、お互いにいつも通りになっていますように。
いつも通り笑って、いつも通り彼が生きてくれますように。

心のどこかでは知っている。太宰先生の思いを自覚した私と、私へ告白した太宰先生と、2人は今までのようには生きていけないのだと。
それでも願わずにはいられないのだ。
せめて、貴方と生きることに前向きになれるまでは。




雨はまだ、暫く止まない。
夏の黒い雲が、昼間の部屋に影を落としていた。






なか様の『ぼくら主演サイレント映画』企画『ぬるま湯』提出
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