人肌ノ夢
司書室の窓を閉め、クーラーをつける。
流石に暑くなってきた今日この頃、文明の利器に頼らざるを得ない。
7月に入ったからクーラー解禁と言うと、一部の文豪たちから歓声が湧き上がった。自分達が死んでいる間の科学の発達は驚くものなのだろう。日射病になる人が少なそうだと言う話をすると、我らがお医者様森林太郎先生はちょっと安心した顔をしていた。

程よく涼しくなった頃、潜書していた会派が戻って来た。
ノックの音が聞こえ、会派筆頭が報告にやって来る。

「……俺だ。」
「うん。入って。」

そっと入って来た彼の表情はどこか暗い。
まただ、いつものあれか。司書は微笑みながらため息をついて、立ち上がった。

「そこ座ってて。今お茶出すから。」
「……ああ。」

司書室に置いてある自分用の冷蔵庫から麦茶を出し、冷凍庫から氷をグラスに入れる。
司書室の隅に置いてある円卓のところに座っている彼と、向かいの自分の席のところに麦茶を置いて座る。喉が渇いていたのだろう、彼は一気に大半を飲み干した。

「桂花……。」
「どうしたんですか。」

それは問いではあるが、答えを求めているものではない。幼子を宥める母のように、穏やかな口調だ。
切なげに目を細めた彼に、彼女はそっと手を伸ばす。頬に触れれば、おずおずと彼の手がその手を包む。

「すまない、すまないッ……!」
「好きなだけ、大丈夫ですよ。」

多喜二は桂花の手を握り、縋り付くように泣き始める。
いつからか、彼はこうして思うことがあった時司書室を訪れて、彼女の手を握る。どうやらこの図書館で数少ない生身の人間である彼女の体温を感じて安心しようとしているらしい(流石に館長さんにやるつもりはないのだろう)。確かに、彼女の体温は文豪たちよりも1度ほど高い。
暫くすると、少しだけ多喜二が静かになった。いつもなら、あと少しすれば帰ってしまう。大抵その後、彼は暫く部屋から出てこない。
彼のフードの影の顔を見ながらふと、このまま返してしまっていいのかといつもと同じように同じことを思う。いつもこの後、彼は。このままで、彼は。

「あ、アンタ……!」
「我慢しないでください。」

立ち上がって、多喜二の側まで行って、その身体を抱きしめる。
驚いたような表情で彼が固まっているのがわかる。

「我慢しないでください。泣いたって構いません。ここには私とあなたしかいません。
あなたを傷つけるものは何にもないんです。
だから、思う存分、好きに――」

してください、とまで言うより早く、桂花の背に腕が回る。同時に、耳元で鼻を啜る音、そしてくぐもった嗚咽が聞こえて来る。

「すまない、もう少しだけ……。」
「大丈夫です。大丈夫ですから……。」

そっと背を撫でる。母親が我が子を寝かしつけるかのよう、優しい手つきだった。



「寝ちゃいましたか……。」

泣き疲れて目元を赤くした彼。こんなになるまで泣いた彼は見たことがなく、今迄我慢させていたのかもしれないと思う。

よっこいしょ、と誰も聞いていないのをいいことに言いながらその身体を担ぎ上げる。
自分は女子の中でも自分は力がある方だが、本当に多喜二は見た目の割に軽かった。
そのまま部屋の隅にある小さめのソファのところまで連れて行く。あの椅子の上で寝ているより、こっちの方が楽だろう。
下ろそうとして、あ、と気づく。

「背中、握られてる……。」

いつの間にか、服の背中を力強く握られていた。このままでは下ろすに下ろせない。男性の力で握られてしまえば流石の自分でも勝てない。
否、それ以上に引き剥がしてしまうのは可哀想にも感じた。こうして彼は己に弱みを見せてくれるのだ。ならば、起きた時に安心できるようにそばにいた方がいいのでは。
桂花は手を伸ばしてリモコンを手に取る。ぴっと音がしてリクライニングするソファ。すぐにそこは簡単なベットへと早変わりした。
もう一度彼の身体を抱え上げ、真ん中の方に起動する。そうして、役目を終えた自分もソファの上に倒れこんだ。

(綺麗な寝顔……)

先程の苦痛に満ちた顔では無く、今は安らかに夢を見ている。
生前の彼は辛苦に満ちていた。己の手で作り出した今生も平和とは言い切れない。嘗てはペンを、今は刃を手に、己の文学のために彼は戦っている。
彼が心から安らげるのは心地よい微温湯のような夢の中だけなのではないか。そう思うと、せめて彼が夢を見ている間だけでも、なににも蝕まれずにいて欲しいと願わざるを得ない。
桂花はそっと、多喜二の背に手を回した。彼に背中を掴まれ、既に抱きしめられるような形になっていたし、ちょっとクーラーが寒くなってきちゃったしと尤もらしい理由を考えながら、彼女も夢の中に潜り込んだ。





「司書さん、多喜二、ご飯だよ。」

重治は司書室をノックした。飯時になっても来ない2人、特に食いしん坊な多喜二が来ないことに心配した彼はそっと扉を開いた。

「って、寒ッ!」

思わず身震いする。暑いとはいえ、流石に冷房が効きすぎてはいないか。
取り敢えず壁に取り付けてあるリモコンで電源を落とし、司書室に入っていく。
そこには、ソファの上で身を寄せ合う2人の姿。多喜二のコートを毛布がわりに、静かに、安らかに、寝息を立てている。重治の視線は自然と司書の腕の中の彼に向く。その口元は、どこか幸せそうだ。

「しげじ、2人は……?」
「しーッ、もう少し、寝かせてあげよう。」

後を追ってきた堀に目配せして、再び視線を同胞に戻す。
未だに己の中の罪の意識は拭えないが、せめて彼が幸せを感じているであろう夢の中を邪魔しないよう、冷房の温度を上げてから扉を閉めた。
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