初夏ノ夜
窓を開けると、涼しい風が入って来る。夕方通り雨があったせいだろうか。とにかく、冷房機器など必要ない。
誰かがつけたらしい風鈴が音を立てる。見つけた時は気が早いなぁと思ったものだが、いざこうして音を聞いてみるとより涼しく感じる。一転してそいつを褒めてやりたい気分になった。

「あ、ヘルン先生!」
「オヤ? 桂花サン。そんな格好では、風邪を引きマス。」

向こうから笑ってやってきたヘルン先生、基、小泉八雲は部屋着としてプレゼントした着流しを纏っていた。白い髪は湿っていて、方向からしても風呂上がりだということが見てとれる。
対して桂花の格好は適当に纏った旅館のような浴衣。半分ほど乾かした髪は適当に簪で後ろに留めている。確かにこの時期にしては少々薄着だし、髪も湿っているから風邪を引きそうだ。

「それはお互い様ですよ、ヘルン先生せ……。」
「2人の時は、どうするんデスか?」
「……や、八雲さん。」

よくできまシタ、と桂花の唇に指を沿わせる八雲は笑う。
司書は文豪達を世話する身であるから、あからさまな贔屓が生じるのは良くない。よって、密かに恋を実らせた2人だがその関係は彼女の希望により秘されている。
尤も、若干二十歳である初々しい女の秘めた恋心など、2度目の人生を迎えた経験豊富な文豪達の中には見抜ける者も多く、こっそりと八雲から聞き出し密かに見守っているのだが。

そんなことを知らない女は、八雲の不意打ちにちょっと顔を赤らめる。
この少女のようなあどけなさの残る司書の反応に、八雲は随分と満足そうだった。

「ところで、桂花サンは何をしに来たのデスか?」
「えっと、喉が渇いたので食堂に。」
「では、ワタシも御一緒しまショウ!」



ちょっと上機嫌らしい八雲に連れられ、目的だった食堂に向かう。
もう他の人は寝てしまっているのか、2人の足音だけが廊下に響く。
ワタシがやりマス、と彼が自ら冷蔵庫から麦茶を出して淹れてくれる様子を椅子に座って眺める。
この時間は調理師さんも帰ってしまい、何をするにも自分たちでするしかない。だが、そのお陰で今は2人っきりでいられるのだ。恥ずかしいけど、嬉しい。

「ありがとう、八雲さん。」
「礼には及ばないデス。」

八雲は桂花と自分の麦茶をテーブルに置き、隣に腰かけた。
遠くからカエルの鳴き声が聞こえて来る。

「この国はやはりいいデス。生き物の鳴き声を、風情だと言う、そんな趣き深さがありマス。」
「そういうもんなんですか?」
「そういうもなんデス。」

呟きに返した彼女の言葉を、真似して八雲が言う。そのお茶目な言い方に、2人でおかしくなって笑った。



「あ、ありがとうございます。」

麦茶を飲んでいると、不意に八雲の手が伸びて来て、頬にかかっていた桂花の髪を耳にかける。
慌てて礼を言うと、真っ直ぐな男の右目と視線が重なる。

「アナタはとても綺麗な人デスね。」
「八雲さん……。」

名前を呟くが早いか、気づけば彼の腕の中に居た。案外逞しい身体が、桂花を包む。だか、体温があるのに、鼓動は聞こえない。
ああ、そうか。彼は既に死んだ人で、私が仮の姿を呼び出しているに過ぎないのだ。
気付いてしまったそれに、今にも叫びたいような衝動を堪えるために、八雲の背に自らの手を回す。すると八雲も腕の力を強めて来て、余計に彼の音なき鼓動を聴くことになり、更に哀しさが増した。

「ワタシもわかっていマス。それでも、アナタを愛せずには居られないのデス。」

柔らかな八雲の声が耳を支配する。そっと頬に彼の手が添えられ、腕の力を緩めると彼が視線を揃えてきた。右目の紫水晶が、愛おしそうに細められる。きらきら、本当に宝石のように輝いて見える。

「いつか、その日が来たら、その時は、」
「皆まで言わないでくだサイ。」

彼は桂花にそっと口付ける。
そうして、柔らかく微笑んで言った。

「アナタの為に、ワタシは戦いマス。その時が来たら、ワタシはアナタに、来世の約束をしまショウ。」

そうしたらきっと、アナタはどんなことも怖くはないでショウ?
そんな笑顔で言われたら、そんな大好きな笑顔で言われたら、そんな気がして来てしまうではないか。
狡い人、と呟いて、今度は桂花から彼に口付ける。

氷が溶けて、コップの中で崩れ音が、夜の静寂を乱した。
1/4
prev  next