何でこうなっているのか。
切島鋭児郎は体を固まらせながら疑問符を浮かべるばかりだった。
それもこれも自身の股座にデン!と居座る名前の飼い猫のせいなのだが。

名前に招かれ、悩みつつも好奇心で歓迎会以降となる家に足を踏み入れた切島。出されたお茶をこくりと飲みながら、最近の学校での出来事に花を咲かせる。その内にうろうろと歩き回ったり名前に甘える様な声を出していた猫が、切島に興味を示すのは遅くなかった。名前が席を外した隙に切島の体に撫でつけるような動作を示したかと思えば、胡座をかいていた彼の脚の間に丸くなってしまったのだ。そしてそのまま目を細めたかと思うと寝始めてしまったのである。

「名前ー、わりぃ助けてくれ。こいつどうしていいのか分からねぇ」
「えー?」

自室からリビングへと戻ってきた彼女に首だけ後ろに向けながら助けを求める。名前は背中を向けて座る切島に何があったかと彼の頭上横から顔を覗かせた。下から見上げると普段はよく見えない首筋がくっきりと見え、何故か背徳感がこみ上げ、何事もなかったように目を背けた。

おい、こら。こっちは健全な男子高校生だっての!

動揺を表に出さぬようにしながらも、切島は頭の中で苦言を呈した。峰田のような節操無しではないのだが、切島もそれなりに女子の柔らかさや細さ、シャンプーの匂いなんかにはドキリとする訳で。
必死で別のことを考えようとすると、足の間で猫がぴくりと動いた。

「あ、この子お世話になったのにまた迷惑かけてる」
「や、迷惑ではねーんだけど…せっかく寝てるのに起こしちまいそーで」
「あはは、猫よく寝るから大丈夫じゃないかな」
「いやでもよ…」

猫を存外大切に扱う切島に気遣いありがとう、と名前は微笑んだ。しかしながら切島自身は先ほど見た名前の白い首筋と、すらりと伸びたあの脚が頭から離れず、一刻も早くこの場を去りたいような、まだこのまま一緒にいたいような葛藤を覚える。
それに加え、生き物というのはこんなに熱を発するのか、と驚く程、猫はじんわりと体温を切島に移していた。

あつい。

部屋の中は冷房のお陰で涼しいが、脚のあたりは熱く、その熱が体にも回っていくようだった。この猫は暑くないのか。

「足辛くなったら起こしちゃっていいから」
「おー…」
「…なんか、元気ない?熱中症?」

確かにさっきまで外を走ってはいたし、それなりに汗もかいていた。しかし、熱中症のあの頭がダルいような重さや目眩なんかは全くなかった。平気だということを伝えると、心配そうな顔をしながらも冷えたお茶を用意してくれる。喉も乾いていたせいもあり、ありがたくゴクゴクと飲み干し、あっという間に空になってしまった。
からん、とコップの中の氷が揺れる。その音で目が覚めたのか、暑さが嫌になったのか、猫がすたりと立ち上がり、切島の足を踏みつけながら日陰になっている部屋の隅へと移動した。名前の猫は人懐っこいとはいえ、こんな気まぐれなところは猫らしいというか。思わず苦笑いを浮かべるしかなかった。

「我儘でごめんね」
「やっぱ暑いと苦手なんだろうな」
「そうなのかも……猫も熱中症なるのかな?気をつけないと」

自身の言葉で何か思い出したのか、そういえばと名前が切り出した。

「ちょっと前にさ、流行んなかった?」
「何が?」
「熱中症、ゆっくり言うの」
「あぁ…中学の時のクラスの女子が何か言ってた気ぃするわ」

いつだったかに流行った…という程ではないのかもしれないが、確かに話題にはなった。熱中症をゆっくり言ってほしい、と頼む。頼まれた方は言われた通り、発語すると『ね、ちゅうしよう』とキスを強請るような言い回しになってしまうという。なんとも恐ろしいというか、考えた奴すげーな、と昔の切島は考えていた。今もそうだが。

あったあったと笑えば、懐かしいねなんて名前も笑う。それからふっと、あの時折学校で見せるような悪戯っぽい笑顔に変わった。ぞくり、と切島の背中に何かが走る。とん、と名前がこちらに身を乗り出した。上着からはさっきあんなに俺を悩ませた首筋と、その、奥がちらりと。
これだから名前は怖いのだ。普段は優しいかと思えば小賢しい戦法をとったり、清楚にみえて危うげな部分を見せてきたり。戦闘訓練では俺のほうがあんなに優勢だったのに、今では何もできる気がしなかった。くそ、漢らしくねぇ。
からん、と再び氷が鳴る。コップは結露し、表面には水滴がぽつりぽつりと出ている。俺が先程までかいていた汗はもう引っ込んでいたと思っていたのに、首筋にだけはつぅ、と汗が垂れていくのが分かった。ごくり、とどちらかの喉が鳴る。

「切島くん」
「な、んだよ」
「あせ、かいてるね。首のとこ」
「ちょ、近くね」

どんどんと乗り出してくる名前に俺は為す術がなく。制止しても名前の指先がゆっくりと俺の首に這う。ひたりと汗が名前の指へと移っていった。そして、ゆっくりと唇が動く。


「熱中症って、ゆっくりいって?」




瞬間、猫が日陰からにゃあ!と鳴く。はっと気付いた時には、バランスを崩し、俺は後ろへと倒れこんでしまった。ごちり、と鈍い音が響き、思わず頭を抑えれば名前は慌てたように謝った。

「ごめん!大丈夫?!」
「ってぇ、けど俺硬いから大丈夫だって」
「ちょっと調子乗り過ぎちゃった。ごめん」

しゅんと項垂れる名前は、さっきまであんなに誘惑的だったとは思えなかった。頭を擦りながら起き上がると、冷やすものいる?と心配そうに声を掛けてくる。ホントに別人かよ。悔しさからじと、と名前を訝しむように見れば、申し訳なさそうな顔をする。その顔に毒気は抜かれてしまった。

「つーかなんだよ、ミッドナイト意識?」
「ふふふ、実は、ね」

何が目的だったのか、と尋ねるとぱくりと指先を口に含む。それを見た瞬間、やられたと息を吐いた。 そういえば、ガンヘッドのとこに職場体験にいった麗日が言っていた気がする。『相手のフィールドではなく、自分のフィールドで戦う』。俺はまんまと名前のペースに乗せられてしまったのだ。

「相手の個性のコントロールは体液の摂取、だったな。汗もかよ」
「いつも負けてるから、こんな時くらい?」
「くそー…訓練では負けねーからな!」
「次も勝ちは譲らないよ?」

ふふふ、と悪戯に笑う名前に個性とは関係なしに力が抜ける。
空になったコップの下は結露した水が溜まり、窓からの光を反射していた。もう熱はひいていた筈なのに、俺のなかはどくりと再び熱が孕んでいた気がした。




           


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