君はリリーを知っているか?


「ちくしょう!」

 『ハウス』とはオックスフォード大学のカレッジであるクライストチャーチの呼び名だ。オックスフォードには他にもたくさんのカレッジがあり、リリアンたちはオリオルカレッジに所属している。学寮でもあり学舎でもあるカレッジには教師も生徒同様に所属し、大体の学科は教師の所属するカレッジで授業を受ける。
 セント・キャッツもカレッジのひとつである。ハウスとオリオルはどちらも煉瓦造りの中世を思わせる外見をしていた。オックスフォードの建物は大半が中世時代のまま取り残されたような見かけをしていて観光の要にもなっている。一方セント・キャッツは1962年にデンマークのユダヤ人建築家が設計した建物で近未来的な装いをしていた。つくられた当初は賛否が分かれたものの、現在は相応の評価を得ている。そんな外見だからなのか、リリアンたちはセント・キャッツに『変人が多い』という印象を持っていた。
 リリアンがドリーの視線を追いかける。ダンスフロワのすみでテーブルに集まっている集団がいた。踊っていない連中はほとんど同じようにテーブルを囲んでいるから別段珍しいわけでもない。

「ルセック教授は『芸術家の卵』が大層お好きみたいだからねぇ。スペンサーマニアだし、自分もスペンサーみたいな奴のパトロンになりたいんじゃないの」

 ルセックはセント・キャッツに所属する英国文学の講師だ。
 ドリーが口をへの字にまげる。

「リリアン、アナタさっきスペンサーファン全員を敵に回したわよ」

「別にスペンサー自体をバカにしたわけじゃないですぅ!」

 ドリーの視線の先では金髪に編み込みを入れた男が仲間たちと笑い合っていた。その中に線が細く気の弱そうな男がいる。決して背が低いわけではないのだが、華奢な体つきのためか本来より小さく見えた。
 ドリーが不審そうな声をあげる。

「『ハウス』のジャッキー・ボーモントじゃない。ボーモント議員のご子息があんなガラの悪い奴らと絡んでていいのかしら」

「まあ、いよいよヤバくなったら逃げるなり叫ぶなりするんじゃないの?」

「アナタって思いのほか冷たいわね。タカヒロはなんであのテーブルを見てるのかしら」

色男ロメオも『ハウス』所属じゃん。あの中に思い人でもいるんじゃないの」

 ドリーが鼻を鳴らした。

「そのネタやめてよ」

 リリアンは薄暗いダンスフロワの中でミックたちのテーブルに目を凝らす。
 ジャッキー・ボーモントはずいぶんと顔色が悪いようだ。会話をしていても相手に目線がいっていないように見える。
 彼女がジャッキーの様子をよく見ようとしたとき、カウンターにいた西野隆弘が叫んだ。

「おい! ジャッキーっ!」

 華奢な身体が傾き、仰向きに倒れる。頭を打ちそうになるところを駆け寄る隆弘が受け止めた。先ほどまでジャッキーと会話をしていたミックは茫然と目の前の出来事を眺めているだけだ。隆弘がジャッキーをダンスフロワの隅に寝かせたと同時にリリアンが駆け寄った。

「そいつ意識戻らないの!?」

「ああ」

「かして! あと救急車呼んで!」

 タバコを咥えたままの隆弘が倒れた男を煙から守るように一歩離れる。今まで騒がしかったフロワから人のざわめきが消え、音楽だけがかかっていた。
 リリアンが声をはりあげる。

「ジャッキー・ボーモント! 大丈夫!?」

 返事がない。リリアンは男の頭を後ろにのけぞらせ、自分の頬をジャッキーの口元に近づけた。呼吸音が聞こえない。即座に男のシャツに手をかける。

「ちくしょう!」

 彼女がジャッキーの着ているシャツをはだけさせ、心臓の位置に手を置いた。肘を真っ直ぐに伸ばして思いきり男の身体を押す。それを一定のリズムで繰り返す。なかなか体力のいる作業だ。
 不安そうにジャッキーの様子をみる野次馬の中からドリーがリリアンに近づいてきた。

「リリアン! 大丈夫なの!?」

「自発呼吸してない! 心臓マッサージかわって! 今人工呼吸するから!」

「わ、わかったわ!」

 ドリーがリリアンと心臓マッサージを変わってくれたので、リリアンはジャッキーの鼻をつまんだ。それから口を大きく開いて息を吸い込み、男の口を塞ぐように口付ける。肺の中にある空気を1秒ほどかけて吹き込み、ジャッキーの胸があがるのを確認すると、同じ要領でもう一度息を吹き込む。
 ドリーは額に玉のような汗を浮かべ、必死に男の心臓を刺激しつづけていた。リリアンもまた息を大きく吸い込み、口移しで男の肺に空気を送り込む。
 ジャッキーが心肺停止状態になった理由はだいたい察しが付いている。テーブルの上にいくつものカプセル剤がジッパーのついたビニール袋に入って 放置されていた。いくつかのカプセルは袋から出たままになっている。自主的か無理やりかは解らないがジャッキーはこれを服用したのだろう。ナイトクラブではドラッグの服用が日常的に行われている。まさか自分たちが巻き込まれるとは思ってもみなかったが、ニュースではよく聞く話だった。
 もう一度ジャッキーに口移しで空気を吹き込むと、リリアンは顔をあげてドリーを見る。顔が少し赤いようだ。

「ドリー、少し休んで。心臓マッサージ代わる」

 ドリーは首を振った。

「大丈夫! 人工呼吸続けて!」

 ジャッキーの身体がマッサージのたび大きく跳ねる。ドリーが心臓マッサージを代わる気配がないのでリリアンはまた人工呼吸を再開した。三度目に息を吹き込んだとき、男の腕が動きまぶたが震える。リリアンが唇を離すのと同時にジャッキーの目がゆるゆると開いた。間近で見ると思ったより童顔で、子犬のようにつぶらな瞳をしている。ふわふわとした髪がやわらかそうだ。童顔なのもあいまって一瞬女に見える。ブルーの瞳がリリアンを見てきたので、彼女は咄嗟に男の喉元へ視線をうつした。喉元もやはり女のように細い。

「君、は……」

 声が擦れていて聞き取りづらかった。もう20歳になっているはずなのに、声変わり前のような印象だ。
 目の焦点が合わない男の頬を軽く叩き、リリアンはジャッキーに話しかけた。

「私はリリアン・マクニール。ジャッキー・ボーモントだろ? 自分がどこにいるかわかる?」

 ドリーが心臓マッサージをやめて様子を見守っている。寝転がったままのジャッキーはうつろな目をさ迷わせ、周囲を見渡した。

「クラブに、いたと……おもうんだけど……」

「記憶はちゃんとしてるね。今救急車がくるから、気をしっかりもって!」
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