6.

「あの、不躾な事を聞きますけど、中原さんって彼女居るんですか?」

「……は?」


爽子が織田と太宰と会ってから2週間後。
彼女のバイト先の居酒屋に訪れた中也は、突然の質問に思わず咥えかけていた煙草をポトリと机に落としてしまった。
未だ火を着けていなかったから良かったものの、若し火が着いていたら最悪の事態に為り兼ね無かっただろう。


「ンな事ァどうだって佳いだろ。手前には関係無ェ」

「その答えは、『居ない』って事で佳いんですね」

「人の話聞きやがれ」

「痛でっ」


中也は額に青筋を浮かべて爽子を小突く。


「酷いです中原さん。私、結構本気で聞いたんですよ」

「あァ?手前嘘吐いてんじゃねェぞ」

「嘘じゃ有りませんってば。大事な事なんです」


云われてみれば、確かに爽子の瞳は真剣そのものだった。
余りにもじっと此方を見つめて来るので、中原は思わず身を引いてしまう。


「おい有吉一寸離れろ」

「嫌です中原さんが答えて呉れるまで私動きません」

「手前何か今日態度デカくねェか?」


中也はそう云って溜息を吐く。


「……居ねェよ」

「えっ本当ですか!?」


渋々といった様子で中原が答えた瞬間、爽子はずいっ、と更に顔を近付ける。


「莫迦、近けーよ!」

「あ……御免なさい」


爽子は恥ずかしそうに笑うと、「実はですね」と口を開いた。


「私、どうしても行きたい喫茶店が在るんです。でも其の喫茶店……カップルしか中に入れて貰えなくて」

「成程な」


―要するに此奴は、俺に恋人のフリをしろ、と云いたい訳なのだ。


「好いぜ。一緒に着いてってやるよ」

「え!」


爽子は其の答えに目をキラキラと輝かせる。
余りにも判り易過ぎる其の反応に気分を好くした中也は、目を細めて爽子の頭をクシャリと撫で回した。


「手前、判り易過ぎだろ。犬みてェだな」

「別に佳いじゃないですか。私、自分が好きな事に関しては、結構積極的に頑張れちゃうみたいです」

「そうかよ」

「はい。だから、一緒に喫茶店に行くの、楽しみにしてますね」


爽子はそう云って微笑みを浮かべた。


◇◆◇


其れから約1週間後。
爽子は約束通り、中也と一緒に例の店に向かって足を進めていた。


「そういや今更だが、」


中原は帽子の鍔(つば)を弄り乍(なが)ら口を開く。


「何で俺に恋人のフリを頼んだンだよ?他に頼める奴居なかったのか?」 

「否、心当たりが無い訳では無いんですが……其の人、何だか頼み辛くて」

「? 何でだよ」

「んー……仕事の立場上?」

「嗚呼、そう云う事か」


中也は納得したように頷くと、其れ以上は何も触れずに別の話をし始めた。


「恋人のフリするってンなら、お互い名前で呼び合った方がソレっぽいよな」

「え!?」

「おい有吉、お前下の名前何て云うんだよ?」

「えっと……其処まで拘る必要有ります?」

「あ?佳いだろ別に。用心するに越した事ァ無ェよ」

「其れは……まァそうですね」


はぁ、と小さく溜息を吐くと、彼女は「名前は爽子ですけど、爽って呼ばれてます」とぼそぼそと答える。


「そう云う中原さんの下の名前は何なんですか?」

「中也だ中也。ほら、呼んでみろよ」

「……中原さんが私の名前を呼んでくれたら私も中原さんの名前を呼びますよ」

「ったく仕方無ェな……。
爽、俺の名前呼んでみろよ」

「……ちゅ、中也さん」

「何で『さん』付けなんだよ大して歳変わンねェだろ」

「じゃあ……中也?」

「っ、」


こてんと首を傾げてそう云う彼女を見て、中原は小さく息を呑む。

―ンだよ此れ中学生か。

若しこの場に彼の相棒が居たならば、確実に中也を冷やかしに掛かっていただろう。


「好いか此れからは店でもそっちで呼べよ判ったな!」


中也は早口でそう捲し立てると、ずんずんと早足で歩き始める。


「え、一寸待って下さいよ!」

「敬語も無しだ!」

「はぁ!?」


爽子は訳も判らぬ侭必死に中也の後を追いかけた。



暫くすると、目的地である喫茶店に辿り着いた。
2人は互いに顔を合わせて頷き合うと、ゆっくりと入口の扉を開ける。
カランカラン、と、来客を告げるベルの音がした。


「いらっしゃいませ!当店はカップルのお客様のみの受け入れとなっておりますが宜しいですか?」

「はい」

「ではお二人がカップルであるという証明の為にキスをしてください」

「……は?」


爽子は思わず気の抜けたような声を出してしまった。

待ってそんな話聞いてない。

チラリと中也の方を見ると、彼も自分と同様固まっている。


「あの―」

「爽」


爽子が諦めて帰ろうとした時だった。
不意に中也に名前を呼ばれ、彼の方を振り返る。

ちゅっ、と音がして、頬に一瞬柔らかいものが触れた。


「……え?」

「ありがとうございます!では店内にご案内致します」


何が起こったのか判らない。

爽子が困惑しているのを余所に、店員は話を進めていく。


「おい、大丈夫か?」


中也が心配そうに声を掛けるも、爽子は目を瞬かせる事しか出来ず。

はぁ、と彼は溜息を吐くと、唐突に彼女の手を引いて店内へと誘(いざな)った。


「……悪かったとは思ってる」


ぼそりと呟く中原を見て、爽子は漸く我に返る。

―嫌じゃなかった。

彼女の心を占めたのはその一言だった。

そして彼女は、自分で自分の気持ちに当惑したまま、中也と一緒に席に着いたのだった。


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