血に汚れたこの手では
足元に広がった血も、硝煙の匂いも。銃の反動も。むせかえるような血の匂いも。
何もかもが私にとっての当たり前。
幼い頃からずっとこの世界で生きてきた。ここ以外の場所なんて知らないし、私の居場所はここにしかない。
***
「お姉さん」
公園のベンチに座っていると、声をかけられる。あいにくと首を回すのすら億劫で、視線だけをそちらに向けるとそこには眼鏡をかけた一人の少年がいた。
「なんだい……坊や」
「どうしたの?さっきからずっとそこにいたままだ。どこか具合でも悪いの?」
「ああ、いや。別に具合は悪くないよ。ただ」
真っ直ぐで純粋なその目を見ることが耐えきれず目を逸らす。
「ただ、疲れてしまっただけなの」
疲れた。そう、疲れたんだ。
銃と硝煙の匂いと血しかない真っ暗な世界。日陰にしかいることが出来ず。けれどふとした瞬間に日が当たる場所を見ては胸が締め付けられる。どうしようもないことだった。これ以外に道なんてなかったし、選択肢すらなかった。どうしようもないことだったんだ。最初から他は知らなかった。知らないままならなんでもなかった。
けれど私は知ってしまったんだ。通りを歩いている親子を楽しげに遊ぶ幼子を、日の当たる場所を許される彼等のことを、羨ましいと思ってしまったんだ。
「お仕事?」
「仕事、うん。仕事だね」
「大変なんだねぇ…ねぇ!どんなお仕事なの?」
「君に話してもわからない事だよ」
疲れて。でも逃げられなくて。だから殺して。本当はやめたくて。でも他の道なんて知らなくて。疲れて疲れ果てて。また殺して。どんどん擦り切れていくみたいだ。
「お仕事って、その銃を使うこと?」
少年の言葉が脳に届いた瞬間。目を見開き固まる。そしてゆっくりと、今度は顔ごと少年の方に向いた。
少年は、真っ直ぐ、純粋で、力強い目をしていた。
「気をつけているみたいだけど、お姉さんの脇が膨れ上がっているよ。それに、銃を携帯しているのに違和感は全然ない。日常的に使っている慣れだよ」
この子はなんなのだろう。
拳銃を持っていることを気づかれるわけにはいかないから、それなりに警戒しているし服装も分かりにくいものを選んでいる。げんによっぽどの観察眼で見られない限りはバレることなんてほぼない。
それを見抜いた?こんな子供が?
「駄目だよ」
少年はまだ6・7歳ほどだろう。けれどそんな幼子には見えない。
「それは簡単に命を奪えるものなんだ。使っちゃ駄目なんだよ」
一度その目の輝きに気がついてしまえば、もう逸らせない。こうやって無防備に話しかけてきたのだって、きっと私が暴れ出さないと確信しているからだ。この短時間でそこまで計算して、確信して、そして行動に移すなんて、並の人間じゃない。
銃を持っていても犯罪者と弾圧せず、改心するように、自首するように諭す彼は、一体何者なのだろう。
ああそうか。
「君が、ベルモットの言っていた子か」
「!?」
私がその名を口にした瞬間。今度は少年が身を固くした。驚きで見開かれた目はすぐに鋭く睨みつけ、右手は左手の腕時計に向かう。先程まではほぼなかったといっていい警戒を一気に最大値まで跳ね上げる。こちらの脅威を知っているだろうに。それでも怯え逃げるのではなく油断なくこちらを睨み隙を伺う。それを一瞬で判断した。いい反応だ。
「………?」
身構える少年に対して未だ首だけを向けた体勢のままの私に、疑問を感じたようで訝しげな表情をする。
「なんで……、殺さないんだ」
「殺す?何故?君を殺せなんて命令は受けていない」
「でも…」
「私の正体を知ってしまったから?言っただろう__もう、疲れたって」
そうだ。私は疲れたんだ。殺すことに闇にいることに。
本当ならば正体を知られた相手は生かしてはおけない。目撃者は、消さなければいけない。この子をここで見逃せば後できっと私たちの前に立ちはだかる。本当にこの子がベルモットの言っていたシルバーブレッドならば、きっと来る。
でももういい。疲れたんだよ。任務じゃない時ぐらい休ませてくれたっていいだろ。
「っ、………お姉さんは、組織を抜けたいの?」
先程よりも小声で、険しい表情の中で問いかけてくる。
「抜けたい?……分からないな。ただ闇にいることに疲れた。本当にそれだけなんだよ」
「なら、そう思えるのならまだやり直せるよ……!」
「やり直す。一体どこから?私は最初から闇にいた。それ以外の道なんてない」
「殺したくないって思っているんでしょう?なら殺しちゃ駄目だよ。そう思っているのなら、お姉さんはこっち……日の当たる所に来れるよ」
「………」
「道を歩いている親子や公園で遊んでいる子達をみて眩しそうに目を細めていたのを見ていたよ。お姉さんは、日陰じゃなくて、日向に行きたいんじゃないの?」
ああ、君は優しいな。こんな私にさえ手を差し伸べてくれるのか。
「組織の情報を渡してくれれば司法取引が出来る。完全とは言えないけど、それでも罪は軽くなるんだよ。……ねぇ、お姉さん。お姉さんからの話で助けられる人が増えるんだ」
私が本当に何もしないとこの子はもう確信しているのだろう。必死で説得するように顔を歪ませて泣きそうな顔で言ってくる。それでもまだ腕時計からは手を離さない。それに何が仕込まれているのかは分からないけれど、その警戒心はいい事だ。腕を下げてしまっているのはこの子の優しさからか。
差し伸べてくれるその手に縋り付けば、きっともう楽になれるのだろう。君らがいる光に行けるのだろう。
それはとても魅力的なことだ。正直に言ってしまえば今すぐ伸ばしたい。
けれどね、駄目なんだ。
「坊や。私のコードネームはね、バイオレット」
「!」
立ち上がると、即座に距離を取り腕時計をこちらに向けて構える。
「ありがとう。手を差し伸べてくれたのは君が初めてだ。その手を取ってしまえばもう楽になれるのだろうね」
自分の手を見下ろしてみると、真っ赤だ。現実にはついていないはず。けれどこれは決して取れない。
それに比べて少年は真っ白だ。こんなところに座っている何処の誰とも知れない相手に道を誤らないように説得して、自分が敵対する組織の人間と知ってもまだ救いがあれば救おうとする。
綺麗で綺麗で、何処にも汚いところなんてない。真っ白だ。
「でもね、駄目なんだ」
きっと私はこれからも殺す。楽になりたいと言いながらも自分で自分を殺すことはしたくない。だから疲れても擦り切れても殺し続ける。
「駄目なんだよ」
少年は泣きそうになりながら、けれどその目は決して曇らない。
「坊や。坊やはまるで光だね。_____私には、眩しすぎるよ」
「っ!そんなことない!意思さえあれば、やり直したいと思えるのなら!そんなことはない!」
「いいや無理だね。一度染まった色は二度と元には戻らない。坊や、いつか私達の前においで。そして、私を終わらしてくれ」
歩き出し少年の隣を通り過ぎたが、少年は、止めなかった。
血に汚れたこの手では
(真っ白な君に触れてしまったらきっと汚してしまう)
(白に戻るには、私は人を殺しすぎたんだ)
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