05



昨日、帰って来た時の名前の様子が変だったことを不意に思い出した。
身体も強張っていたし、表情も引きつっていたような気もする。
お店で何か嫌な事があったのだろうかと考えていると、隣からしつこいくらいの視線を感じて自分の筆を動かす手が止まっている事に気がついた。

しまった、仕事中は極力名前のことを考えないようにしていたのに。

視線を僕に向けながらりんご飴を頬張る上司こと少佐は、そのサングラス越しの瞳で何もかも見透かしてしまいそうで怖い。
昨日の晩、名前と一緒に住んでいる部屋に帰ったのだが、この少佐はあろうことか僕の後をつけてきていた。
その事に気づいて昨日は撒いたけれど、少佐相手に毎回撒けるはずがない。
何か手を打たなければ。
そうだ、書類を押し付けて帰ろう!……って、絶対手もつけずに次の日僕に回ってくるんだろうな…。と予想してみると、出来る時にできるだけ書類は終わらせておきたい。
極力まともな時間に帰りたいのだ。


「あの少佐、僕を見ている暇があったら仕事してくださいよ。」

「コナツも手止まってたよ?何考えてたのかな??」


真面目なコナツが仕事中に考えるほどのことなの??とニマニマする少佐に、黙秘権を行使しながら書類を一枚差し出した。


「少佐、下の方にサインお願いします。」

「彼女でもできたの?」


受け取った少佐だが、サインする気はないようで僕が一生懸命仕上げた書類は机の隅っこに追いやられた。
サインくらいサッと書いて終わりのはずなのに…。


「彼女のところに通ってるとか?」

「彼女じゃないです。」


今はまだただのシェア相手なだけだ。
名前はそう思っていることだろう。
ぜんっぜん意識されてないことくらいわかってる。
わかってるから実のところ困ってる。


「女ってことに対しては否定しないんだ?」


ほらきた。
少ししゃべるとこれだ。
否定したのに奥の奥まで探ってくる。
人は人、自分は自分でいいじゃないか。


「大体なんでそこまでして知りたいんですか。」

「知りたいっていうより、照れるコナツが見たいなって☆」


…絶対この人にバレてはいけない。
好きな子とルームシェアしてるのに今も全く相手にもされていないなんて知られたら、茶化されること必須じゃないか。


「でもあれだよね、コナツが消えたのって第2公園の辺りだってでしょ?あの辺りに住んでるっていうなら女の子は気をつけないとね。」

「何でですか。」

「あれ?知らなかった?第2公園のわき道、痴漢が出るらしいよ。オレ昨日そこらへん通ったんだけど、」

「僕のことつけてきただけじゃないですか。」

「まさかコナツに撒かれるなんてなぁ〜。」

「何回でも撒きますよ。それで、通ったけどなんですか?」

「う〜ん、なんかふわふわした可愛い女の子が『後をつけられてて』って怖がっててさ。その子のマンションまで送ってあげたんだけど、やっぱりあの通り痴漢出るみたいだよ?」


痴漢、か…。
名前見た目からして弱そうだし、足遅そうだし、かなり不安だ。
痴漢が出るって知らないかもしれないし、今日帰ったら伝えてあげよう。
できることならその痴漢が捕まるまで遠回りだけどできるだけ大通りを通って帰ってきてほしい。
そのほうが安心できる。


「そうなんですか…。気をつけさせないとですね……」


ポツリと呟いた言葉に少佐は「やっぱり最近自室に帰らないのって女の子絡みなんだね♪」とニンマリ笑ったので、僕はしまった!と渋面を浮かべて今度こそ黙る事にした。




***




「名前ちゃん、そろそろお店閉めましょうか。」

「はーい。」


シャッターを半分閉めるために店の表へ出ると、コナツさんが花を眺めながら立っていた。
まさか彼がここに居るとは思っていなかった私は「コナツさん?!」と声を上げて驚く。


「どうしたんですか?もしかして今日はお客様??」

「ううん、残念ながら。名前そろそろ仕事終わる頃だったよなと思って。今日も仕事早く終わったからどうせなら一緒に帰ろうと思って。」

「嬉しいです!」


正直ありがたかった。
昨日の今日であの公園のわき道を通れる勇気がない。
早く捕まってくれないだろうかと切実に願うばかりだ。


「あ、でもあと15分くらい掛かってしまうんですが…。」

「いいよ、待ってる。」

「急いで片付けちゃいますね!」


シャッターを半分まで閉め、掃き掃除を急いで終わらせる。
今日の分のお金の集計をしていた店長も丁度終わったようで一緒に店の裏口から出た。


「あ、今日は私表のほうに回るのでシャッター閉めておきますよ。」


いつもは店長の役目なのだが、今日は私が引き受けた。
店長が「じゃぁよろしくね。お疲れ様」と言って岐路に着くのを見送って、私は表の方へと回った。


「お待たせしました!」


表へ行くとコナツさんは壁に寄りかかって待っていてくれて、私はシャッターを下ろし鍵を閉めるとクルリと彼に向き直る。


「お疲れ様。じゃぁ帰ろうか。」

「はい。コナツさんもお仕事お疲れ様でした。二日連続で早く帰れるなんて珍しくないですか??」

「うーん…僕もそう思う。明日世界中に槍でも降ったらごめんね。」

「ふふ、なんですかそれ。」


そんなに仕事をする上司が珍しいのかと、大げさに言うコナツさんに笑ったりして他愛もない話をしながら歩いていると、家路の途中にある本屋の前でコナツさんが立ち止まった。


「ごめん、ちょっと本屋に寄ってもいいかな?」


『上司に仕事をさせるには』っていう本があるって耳にしたからさ。と言うコナツさんに頷いて、私も本屋の中へと入った。
彼の後は追わずに適当に料理雑誌が立ち並ぶところで待っていようと目に付いた雑誌を手に取ったところで人にぶつかられた。
夕方の本屋さんはどうしてこんなにも人が多いのか。
本屋さんだというのにも関わらず学生達の声が大きくて少し不快になる。
ぶつかった時チャリ、と何か金属的な音が聞こえたが、それもすぐに雑踏の中に消えた。

しかし『上司に仕事をさせるには』という本があるのにはひどく驚いた。
あるんだ、そんな本…。
コナツさんも大変だなぁと思いながら、『彼に作ってあげたいおかず100』という本をごく自然に手に取った私は目を引いた特集のページをパラリパラリと捲ってゆく。
『帰りが遅い彼にはこんなおかずがいい!』という見出し文句のページにはあっさりとしているにも関わらず意外にもボリュームのあるおかずが載っている。
そうか、こういうのがいいのか。と一人暮らしが長い私が学んでいると、「お待たせ」と本が入っているであろう紙袋を左手に持ったコナツさんに声を掛けられた。


「いえいえ。」


そういって持っていた本を棚に戻してまた2人で家路に着く。


「そういえば第2公園変質者が出るらしいから、しばらく表通りを通って帰ったほうがいいよ。」

「…みたい、ですね…。気をつけます。」


昨日みたいな思いはうんざりだと、バレないように小さなため息を吐く。
昨日は謎なサングラスの男性が助けてくれたけれど毎回そうだとは限らない。
表通りから裏通りの方へ角を曲がり、持っていたバックを握りなおそうとしたその時、何だか自分のバックに違和感を感じた。


「あれ?キーホルダーがない!」


目の高さまでバックを上げてしっかりと確かめるがどの角度から何度見てもキーホルダーがない。


「キーホルダー?」

「はい、友人の手作りで、布でできたオレンジ色のお花なんですけど、やだ、どこで落としたんだろう。」


そこまで言ってふと思い出した。
本屋さんでぶつかられた時に金属がぶつかる音が聞こえたのを。


「あ、あの、本屋さんで学生さんにぶつかられたときに落としたかもしれないので拾ってきます。コナツさん先に帰っててください。」

「僕が走って取ってきてあげるよ。」

「そんな、悪いです。」

「そっちの方が早いし。立ち読みしてたとこで落としたっぽいんでしょ?大丈夫。これ持っててくれる?」


名前はここで待ってて、危ないから動いたらダメだよ。とコナツさんは私に本を預けて早々に背を向けて駆けて行ってしまった。

あぁ、彼も仕事で疲れているだろうに何だか悪いことをしてしまった。
ため息を吐きなが道の隅っこに立って待っていると、怖いもの見たさか、もう少し先の第2公園のわき道に顔を向けた。
やはり街灯が少ないのが目立つ。
そして道路からだと公園の中が見えにくいのが欠点だ。

昨日の恐怖を思い出して、無理矢理にでも彼についていくんだったと公園から前に顔を戻すと見知らぬ男が目の前に立っていた。

コナツさんでも、昨日のサングラスの男性でもない。
身が竦んだのとほぼ同時に、道路脇の奥の茂みに力任せに突き飛ばされた。

小さい悲鳴が喉から出て、崩れた体勢のまま草木の生い茂る地面へと倒れこむ。
咄嗟にバックを手放してしまい、それは少し離れたところに落ちたようでガサリと音だけが聞こえた。

急いで立ち上がろうとするが、男が私の腰を跨ぐようにして覆いかぶさってきたためそれも敵わない。


「コナツさんっ、助けっ、」


バックよりもしっかりと握っていた彼から預かった本を男に投げつけてみたが見事に空を切って地面に落ちる。
次いで助けを呼ぼうと声をあげるが、すぐに男の生温い手で口を覆われてしまった。

お財布が入っている鞄に見向きもせず男は私の上。
誰がどう考えてもお金目当てでないことがわかった。
なんで、公園まではもう少し距離があるのに。

ほんの少し裏通りに入っただけの場所だったのに、突き飛ばされた場所は暗くて人の死角だ。
これでは誰にも見つけてもらえないかもしれない。

心臓がバクバクとうるさいのに、辺りは静かで唯一聞こえるのは男の荒い息と風に揺れる草木の音だけ。

両手で必死に抵抗するが、あっさりとお腹辺りから男の手の侵入を許してしまう。
ふるり、と涙が目尻に浮かんだ瞬間、私の上に乗っていた男が文字のような何かに吹き飛ばされた。
男は盛大に壁に激突し、気絶しているのかぐったりと地面に倒れる。

急に軽くなった体。
上体を起こすと、そこには焦りの色を見せたコナツさんがいて、不意に私を抱きしめた。
温かいぬくもりと共に意外にもがっしりとした体つきなのが服越しに伝わってくる。
先ほどの空中に浮かんだ文字は一体なんだったのだろうか。

全てに呆然としていると「大丈夫?!怪我は?!何もされてない?!?!」とすごい剣幕で捲くし立てられる。


「…へ、平気です…。」


呆然としてしまっている私にもこれだけはわかった。

コナツさんが助けてくれたのだ…。
そう実感するとじんわりと涙が溢れて、私は彼にしがみついて子どものように泣きじゃくった。


「コナ、ツさん、ありがとう、ござ、…ます。っ、こわかった…」


ギュウッと抱きついているのに彼はちっとも痛がらずに「もう大丈夫だから。一人にしてごめんね。」と私の頭を撫でてくれる。
私はコナツさんが悪いわけじゃないと言いたいのに上手く声にならなくて、首を横に振るので精一杯だった。


「そうだ。キーホルダー見つけたよ。これだよね?」


そっと体を離して私の掌に落としたキーホルダーが乗せられた。


「はい、これです。ありがとうございます…。」

「名前が無事でよかった…。」


私の右頬にコナツさんの手が添えられて、左頬にコナツさんの唇が掠めて頬がくっついた。
何だかさっきとは違ったドキドキ感が胸に溢れてくる。


「そこで何をしている。」


茂みの中から人の声を聞きつけたのか、如何にも巡回中という警官が2名こちらに声をかけてきた。

私がすんと鼻を鳴らしてそちらを向くと、警官はどうもコナツさんを痴漢だと思っているのか「お前そこの女性に何をしている」と駆け寄ってくる。


「ち、ちがっ、」


私が弁解しようと立ち上がると、コナツさんも立ち上がり何でもないように壁際でのびている男を指差した。


「君達が探してるのあっち。」


警官は私と、コナツさんと、のびている男を見て、それからもう一度コナツさんを見て顔色を変えた。


「お疲れ様です。これは大変失礼しました。あの、調書を取らせていただきたいのですが。そちらの女性も保護いたしますので。」


なんだろう、お知り合いだろうかと思わせる雰囲気だ。
少なくとも、警官のほうはコナツさんを知っているようにも見える。


「調書は僕が明日書いて提出するからいいよ。この女性も送り届けるから。」

「そういうわけには、」

「馬鹿お前、」


一人の警察官が相方を肘で突き、言葉を遮ると「後のことはお任せください。」と丸く収めた。
何だか色々と意味がわからない。
コナツさんは茂みの中から私のバックを拾い、それから私の手を握って歩みを進めるし、このまま本当に帰っていいのだろうか。


「あの、」


いいんですか?と言いかけたところで私の視界に入ったものに私は顔を青くした。
先ほどの警察官のように。


「あぁっ!!」

「え、何?」


大きな声を上げた私にコナツさんは驚いたようだたが「ほ、本っ!コナツさんから預かってた本、あの男に投げつけてしまいましたっ!!ごめんなさい!」と半泣きで言うと、「は、本?」と目を丸くした後、気にしていないとばかりに道端に私の手によって放られていた本を拾った。


「コナツさんの上司が仕事してくれるようになるかもしれないという輝かしい未来の道しるべが記されてるのに…」

「大げさだよ。名前が無事ならそれでいいよ。名前の無事に比べたら本なんて安いものなんだから。」


岐路に着きながら、僕の本は役に立った?と尋ねてくるコナツさんに、私が馬鹿正直に『それが、勢い余って男にぶつかることなく飛んでいっちゃったんです…。』というと、彼は盛大に笑った。


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