06
「私、護身術でも学ぼうかと思うんです!」
右手を握り締めて先日起こった出来事から学んだ私は新たな一歩を踏み出そうと硬く決意していた。
食事も終わり、入浴も済ませた私達2人はラグの上に座ってのんびりしている中、前触れ無しに話題を変えた私に彼は私が練って練って練りまくって必死に作ったココアを満足気に飲んで「いいんじゃない?」とおざなりな返答を返した。
「やっぱり夜道って危ないですし、この前の男が捕まったからってもう二度とあの場所で変質者が出ないとも限りませんし、ここはやっぱり女の私も身を守る術を学んでおくべきだと思うんですよね!」
力説するも、彼は特に興味なさ気だ。
というよりも、私の勘が正しければ『護身術?名前が習っても撃退できなさそうだよね』といった表情に見える。
「何習うつもりなの?」
「色々調べたんですけど、空手、柔道、合気道、拳法に絞って、その中から合気道に決めました。空手や拳法も考えたんですけど別に攻撃したいわけではないですし、本当は何もないのが一番なんです。だから合気道に決めました。」
「名前の考え、甘いね。」
「それでも、誰も怪我も嫌な思いもしないのがいいと思いませんか?それに合気道って小さい体でも大きな男の人を投げ飛ばせちゃうらしいんですよ!」
「まぁ確かに合気道は無駄な力を使わないで相手を制することができるから、非力な女性にはかなり向いてるよね。」
「そうなんですか?」
「うん。合気道の技って相手の攻撃に対しての防御技と返し技が基本だから確かに名前の言うように攻撃的では全くないよね。何だっけ、『争わない武道』って言われてるんだったっけな…。」
まるで思い出そうと頭を捻るようにしてしゃべっている彼は、一体どこでそんなに詳しく知ったのだろうか。
昔習っていたにしては『前習ってたよ』と類似する言葉も出てこない。
「……なんか詳しいですね。」
「教科書で読んだんだ。」
……そんなの載ってたっけな。
私の興味を惹かなかったから覚えていないだけなのかもしれないけれど、私の記憶に掠りもしない。
「それで、道場はどこにあるの?」
「調べたところ合気道の道場が一番家から近かったんですよ!歩いて30分のところにある道場で、19:00から2時間らしいんです。」
「…あのさ、水を差すようで悪いんだけど。そんな時間に歩いて通うつもり?また痛い目みたいの??」
『いいんじゃない?』と最初の言葉と同じイントネーションで言われてしまった。
もしかしなくてもこの人、私が合気道習おうとしているのに気付いていたのかもしれない。
その上一番近い道場が徒歩30分のところにあることも、全部、全部知って…
「護身術習うために歩いて通って、それで変質者にあったらもういっその事笑い話にしかならないと思うけど。」
「…コナツさん、全部わかってましたね?」
「うん。」
否定することもなくあっさりと頷いた彼に「何でわかったんですか?!?!」と驚けば、彼は苦笑交じりに机の下に放られていた本たちを指差した。
題名『合気道入門』『合気道入門者の心得』『古武術の解説』『護身術とは』。
これらは変質者をコナツさんが撃退した次の日に図書館で借りた本だ。
すべて明日返却なので忘れないようにしなければ。
「名前、わかりやす過ぎだよ。」
「……ですよね…。」
盲点だった。
意外にも見ていないようで見ているものなんだなと、まるでマジックを見せた後、ネタバラししようとしたけど実は全部のマジックのネタ知ってましたと言われたくらい穴があったら入りたい。
私はそっと肩を落とした。
「護身術習うのは諦めます。」
「ね、僕が教えてあげようか?」
それが賢明だと思うよ。という言葉が返ってくると思っていた私は、まさかの言葉に目をクリクリと丸くさせた。
コナツさんが意外にもしっかりと筋肉がついていることは先日抱きついて泣いた時にわかっていたことだが、彼は護身術を習ったことがあるのだろうか。
「合気道習ったことあるんですか?」
「ないけど…、まぁ、ある程度の護身術なら、授業でね。」
授業?
教科書の件といい、やはり思い出せない。
というか、合気道の授業は確かになかったはずだ。
そういえば柔道はあった気もするが、もう何年も前のことで全く覚えていない。
受身の一つでもしようものなら腕がぽっきり折れるかもしれない。
「ぜひぜひお願いします!」
道場に通う事もままならない私は、身近に体術に長けている人がいるのならとコナツさんに教えてもらうことにした。
彼もそれを甘受して「じゃぁ、」と立ち上がったので、私もそれに倣って腰を上げると、後ろかから抱きつかれた。
「うぎゃっ!」
「何??どうしたの?」
気を使ってくれているのかソフトに抱きついてくれているのはコナツさんらしいとは思うけれど、逞しい胸板とか、体温が背中越しに伝わってくるし、なんだか恥ずかしい。
これが知らない男の人だったりと想像しただけで鳥肌ものなのに。
「あ、ごめん。一言声かけてからにしたらよかったね。」
「いいいいいえ!ただ驚いただけなので!!」
驚いた。
触れるだけでドキドキし始めることに。
「もし男から抱きつかれたら、」
コナツさんが教えてくれているのに全く耳に入ってこない。
項や耳に掛かる彼の息がくすぐったくて、どうしようもなくなる。
待って。待って。
意識しないようにすればするほど彼のことを意識してしまう。
先日の変質者の一件でコナツさんへの見方がガラリと変わったことがバレてやしないだろうか。
「名前?聞いてる?」
「うへぁ、は、はい!!」
意味の分からない返事をすると、コナツさんは私の肩に額を乗せて噴出すように笑った。
これは完全に遊ばれていたパターンかと今更気付く。
「名前ってば動転しすぎ。しかも顔、赤いよ?」
頬を長い指で突かれるたびに「う、う、」と唸り声を上げれば更に笑われた。
「茶化さないでくださいよ。」
「茶化したつもりはないんだけどね。」
コナツさんはそういって私から離れると、先ほど座っていた場所にまた腰を下ろした。
私はそんな彼を睨むが、何より頬が熱い。
「努力しようとしたのは認めるよ。名前ってば警戒心なさすぎだから、もうちょっと警戒すること。男には下心があるんだから。ね?それから初めてみたら?」
「…わかりました。手始めにコナツさんから警戒することにします。」
「それはちょっとあんまりだよ!」
コナツさんが笑って、私もそれにつられるように笑って。
何だか最近、私達の距離が近くなったような気がするのは、きっと気のせいじゃない。
***
「店長、私、床を水で流しますね。」
「えぇ、よろしくね。」
「はい!」
時はすでに夕暮れ。
道向かいに店を構えているカフェは満員のようで賑わいを見せており、それを眺め見てから水道にホースを嵌めて、閉店間近の店の床に水を流しながら彼のことを考えてみた。
私達の距離は日々縮んでいっていた上に、この前の事件でそれはグンと縮みをみせた。
彼も嫌そうではないし、私も満更じゃなかったりするのだけれど、それと同時にあの事件は余計にコナツさんが何をしているのかわからなくなってしまった。
縮まったのに、縮まらない何かがそこにはある気がして、私は助けてもらえた嬉しさと、それからもどかしさに胸が苦しくなる。
あの空中に浮かんだ文字はなんだったのだろうか。
それに警察の人もコナツさんの顔を見たら顔色を変えていた。
警察の偉い人??にしては若いような気がするし…。
いくら考えてもこの世の中数え切れないほどの職業があるのだ、わかるわけがない。
彼が隠したがるのならば私も無理に聞く気はなかったけれど、コナツさんに対して『好き』という感情が芽生え始めた時点で、ひどく知りたくなってしまった。
「欲張りだなぁ私。」
ポツリと呟くと同時に自己嫌悪で瞳を閉じてため息を吐くと何だか力が抜けて、するりと私の手をホースがすり抜け、水を撒き散らしながら地面へと落ちた。
おっといけない、と拾おうためにしゃがむと、何故か水はチョロチョロとしか出ていない。
不思議に思って表にある水場を振り向くと近所の子どもがホースを踏んでいた。
「や、」
めて!と続く言葉を言う前に、水道に繋がっているホースの部分が盛大な水しぶきを上げて外れた。
ホースの先が古くなってきていたため水圧に耐え切れなかったようだ。
子どもは楽しそうに笑いながら去っていくが、私はその盛大に上がった水しぶきのおかげで服は濡れたし散々だ。
小さなくしゃみを一つして顔を上げると、そこにはタイミングがいいのか悪いのか、男性の姿。
私と同じように髪から水を滴らせている。
「……す、すみませんっ!!!!」
子どものしたこととはいえ、この店で起こったことだ。
全てを悟った私は盛大に頭を下げて謝った。
「平気だよ♪」
私の大声に、奥にいた店長も様子を見に来て唖然としている。
「ど、どうしたの濡れて!え、お客様も?!」
「すみません店長、その、えっと…私の不注意で、」
「子どもがホース踏んで水が噴出した被害者2人なだけでしょ?♪」
優しい方で本当によかった。
私は持っていたハンカチを男性に差し出し、店長は「災難だったわね名前ちゃん。お客様もごめんなさいね。」と謝っている。
「ほら、水も滴るいい男ってね☆」
「…あれ?」
そういって濡れた前髪をかき上げた彼のサングラスには見覚えがあった。
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