08



今日、少佐が『具合が悪い』と急に仕事を休んだ。
あの人でも具合悪くなる事あるんだ。と思う『善』な僕と、絶対仮病だ。と思う『悪』な僕が心の中で言い争っていたが、具合悪いと休まれてはどうしようもない。
積もりに積もった書類に目を通してキリがいい所で切り上げてきたが、明日辺りは残業しなければいけないかもしれない。

明日は仕事に来るかなぁと思いながらマンションのドアを開けると、肉の焼けるいい匂いが鼻腔を擽った。
お昼を抜かして仕事をしていたため、とてつもなく食欲をそそられる。
しかも名前のご飯おいしいんだよな。
ごくりと喉がなるのを感じていると玄関先に男物の靴があることに気付いた。

靴のまま部屋に上がるのが一般的なのだが、この部屋は東洋の文化を取り入れているらしく靴を脱ぐようになっている。
これが意外にも開放感に見舞われるから結構この習慣が気に入っているのだが、その玄関先に男物の靴が一つ。

自分のものではないし、名前は論外だ。
ふと『名前の彼氏』という言葉が脳裏を過ぎったが、背後から『護身術』という名目で抱きついただけで顔を真っ赤にして慌てふためく名前に彼氏がいるとは想像できない。
あの時の名前は可愛かった。
とにかく可愛かった。
このまま押し倒そうかどうしようか本気で悩んだくらいには。
必死に理性をかき集めてみたけれど、お風呂上りのシャンプーの香りとか、白い項とか、全てが魅力的で、ただでさえ名前はいつもいい匂いがするのにあの時は自分が『教えてあげようか』とけしかけておきながらもあれは反則だと思った。

もし想像に反して彼氏がいたらどうしようか。

………邪魔、しちゃおうかな。

今は『悪』な自分に素直になってみる。
本来なら軍に自室があり、払わなくていいお金を払ってまでルームシェアをしてるんだ。
この部屋でならそれくらいは許されるだろう。

クロユリ中佐並み…いや、あの人ほど黒くはないけれど、そんな腹黒いことを考えながらリビングに繋がる扉を開く。


「ただいま名前、お腹空い……な、なんで少佐がここにっ?!?!?!」


思わぬ所に思わぬ人がいた。
つい咄嗟に『少佐』という言葉が出てしまったことには気付いていたが、名前はキッチンに立っているため上手く聞き取れなかったようで今のはなかったことにする。


「やほ☆コ・ナ・ツ♪」

「おかえりなさいコナツさん。」


ありえない。
ありえない。
ありえないありえないありえないありえないありえないないないないないないない!!
なんで見慣れたラグの上に見飽きた…けほん、見慣れた少佐が座っているんだ。
見ればテーブルの上には箸やフォークが3人分並べられているし、この人、ここで晩御飯食べていく気かもしれない。

たらり。
背中に嫌な汗が流れた。


「説明、してくれるかな、名前。」


とりあえず少佐ではなく名前に話を振ってみた。
少佐に振るとヘンな事までペラペラしゃべられそうで。
というか、僕が『軍人』で『ブラックホーク』だということを少佐は言っていないだろうか。
僕が名前に嫌われないために必死で隠し通している事実を。


「えっとですね、実はコナツさんが変質者を撃退してくださる前の日に、変質者に追いかけられてて、通りすがりのヒュウガさんが助けてくださったんです。今日店先でお水を掛けてしまったのでお礼とお詫びを兼ねてお食事にお誘いしたんですけど、私の家で手料理がいいと仰られて。しかも聞けばコナツさんのお知り合いとかで。偶然ってすごいですよね。」


世間って狭いです!とにこにこ微笑む名前の長い説明を必死に自分の中で噛み砕くのに、3秒は掛かった。
今名前はなんと言った?
変質者に追いかけられた??


「はぁ?!?追いかけられたって、え、何そんな僕の知らないところで危ない事になってるの?!?!」


全てに合点がいった。
少佐が送ったといった女性は名前だったのか。
まさか名前だとは思いもしなかった。


「無駄に心配させちゃうかなって黙ってました。」

「無駄な心配じゃないからそれ!」


盛大にツッコんでいる中、視界に入った少佐のニマニマ顔。
なんだこの状況。
頭がパンクしそうだ。


「手、洗ってくる。」


話はそれからだと洗面所に入ると、何故か名前も後をついてきた。
ジッと見上げてくる名前の表情には少しばかり罪悪感が滲み出ている。


「何?」

「えっと、その、」


リビングにいる少佐に聞こえないかと気にしているようで、小声だ。
水を流しているから聞こえ辛い。
手を洗いながら、『どうせ聞こえないよ、この距離でドア一枚挟んでるんだから』と伝えるために口を開こうとすると、名前は背伸びをして僕の耳に両手を添えて、まるで子どもがナイショ話をするように口を近づけた。


「その、ごめんなさい。もしかしてコナツさんがここに住んでるってバレたらいけなかったですか?」


僕の複雑な表情から読み取ったのだろうが、今はそんなことどうでも良かった。
背伸びをする名前を洗面台の鏡越しに見たけれど、とにかく可愛い。
耳に掛かる息とか、聞こえてきた小さな声は脳を甘く揺さぶるようだ。


「コナツさん?」

「…いや、そうじゃなくて、黙ってたことに驚いて怒ってるの。家の場所教えなかったのは女性とルームシェアしてるってバレたら茶化されると思ったからで、気にすることないよ。」


茶化されるだろうケド。
明日から仕事、行きたくないな…。
むしろ洗面所から出て行きたくもないや。


「そうなんですか?よかった!」



ホッとした表情を浮かべた名前が可愛くて、頭をよしよしと撫でていると視線を感じた。
不意に視線を感じる方へと目線を向けると、ドアの隙間から覗き見る少佐の姿。


「何してるんですか!」


いつにも増してにまにま、ニヤニヤ。
大体具合が悪かったんじゃなかったのか。


「敬語のコナツさんって新鮮ですね。」

「…そうかな。」


彼が上司だからとは言えず、名前の言葉に濁しながら洗面所から出る。
名前は夕食の準備をしにキッチンへ、僕はテーブルを挟んだ少佐の向かい側に腰を下ろした。
いつもの定位置ではない。
少佐が座っているところこそ、僕の定位置なのに。


「具合が悪かったんじゃなかったんですか?」

「治っちゃった☆」


仮病か。
怒りたくなるのを必死に抑えながら、声のボリュームも下げる。


「明日は仕事してくださいよ!書類がどれほど溜まってるかわかってないはずないですよね?」

「なるほどねぇ〜。コナツが最近やけに早く帰りたがると思ったらこういうことだったわけかぁ。」


う゛。
痛いところを。


「大体水かけられたって、少佐が花屋に行く事事態おかしいんですけど。」


そりゃもうアヤナミ様が庶民スーパーに行くのと同じくらい違和感がある。
何故だろうか。
オーラかな、やっぱり。


「この前コナツが帰りにお花屋さんに寄って名前ちゃんとしゃべってるの見たから、あの子に聞いたらなんかわかるかなって思って♪」


変質者騒動の日、つけられてたのか…と苦渋の表情を浮かべると、少佐は面白そうに笑った。
なるほど、あの日仕事をしてくれたのは、定刻に終わってどこかへ帰るであろう僕をつけるためだったのか…。
仕事してくれて嬉しいような、そうでないような…部下としてはなんとも複雑だ。


「黙ってるみたいだね、色々と。」


少佐の意味深な言葉に頷き、ホッとする。
少佐が軍服でなかったことに。
それから聡い上司でよかったと。
この様子だと僕が軍人でブラックホークの一員だということは彼女には伝わっていないようだ。


「怖がられても嫌ですから。」

「ふぅん♪恋する男は必死だねぇ♪」

「うるさいです、少佐。」

「ご飯できましたよ!何のお話してたんですか?仲いいですね、お2人とも。」


お盆にハンバーグを乗せた彼女を見ると驚きすぎて忘れていた空腹を一気に思い出した。
サボった上司のせいで昼食を取れなかったから今にもお腹と背中がくっつきそうだ。
サボった上司のせいで。


「おいしそうだねぇ♪」


この場に居る誰よりも楽しそうな少佐を見て、今夜は長くなりそうだと、重たいため息を吐き出した。


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