高層ビルに切り取られ、工場からの排気ガスに侵された夜空に、はっきりと星が煌めいていたことが、未だかつてあっただろうか。
 泥のように弛緩した四肢を丸めながら、なんとなく思い返してみる。
 いつだって自分の記憶の中には、墨を飲み込んだかのような夜空が居座っていた。
 墨の中に飛び込む。
 ごぽっ、と篭った音がして、聴覚を支配される。
 見えない手で墨をかき分けながら、脚をバタつかせて、前へ、前へ、進んでいく。
 どこかに、憎たらしい白光を放ちながら、星が落ちてやいないだろうか。
 そう考えるのは、馬鹿らしいことだろうか。


 きらり。


 ふっと、兄者の視界に白っぽいものが映った。
 墨の中に浮いていたはずの自分の体が、柔らかい何かに横たえられているのも認識した。
 白っぽい何かを、ぼんやり見つめる。いつの間にかそれは、墨の中ではなく、海の中にぽつぽつ浮かんでいた。眩んでしまいそうなほどはっきりとした群青なのに、手を伸ばしたら最後、消えてなくなってしまいそうな、そんな青さの中。水しぶきのように、白い星々が散りばめられていたのだ。
 兄者は、誰かが自分の頬に手を当てているのを感じた。同時に、酷く懐かしい匂いが鼻腔に忍び込んでくる。こめかみが痛い。
 瞬間、海が笑って、星が震えた。
「目が覚めましたか」
 兄者はそれが、海や星などではなく、ニンゲンの瞳であったことに、気がついた。
 長い睫毛に縁取られた、寝ぼけたようなたれ目の、その虹彩が、まさしく海のような色合いだったのだ。
「やっぱりまだ少し寝ぼけてますかね」
 海色の瞳の少年が、兄者の顔を覗き込んでいた。
 兄者は自分の頬に触れていた少年の手を右手で払いのけ、左手を突き出して少年の細首をがっちりと掴んで自分の寝ていたソファに引き倒した。一瞬のことだった。
「お前は誰だ」
 地の底から響くような、低い声が出た。少年の生白い首にへばりついた、兄者の節くれだった青い手に、力が篭る。白い肌と青い肌の色差が、なんとも美しく、蛍光灯の光に照らされていたが、兄者は気が付かなかった。
「グ、が」
 潰れたカエルのような声があがる。少年の、半開きになった口の端から、わずかに唾液が溢れている。震えの止まらない白い手が、首に掴みかかっている兄者の手の上に重なった。
 その、小さくて薄い、いかにも少年らしい手に目を落とす。そして兄者が少しだけ締める力を緩めると、少年は激しく噎せた。
 間髪入れずに、兄者は再度問いただす。
「お前は誰だ」
「ゴホゴホッ、ぅ、ゲホッ」
 苦しげな咳が室内に響く。少年はぎゅっと顔を顰めて、なおも自分の首を掴んでいる男の目を、涙の滲んだ瞳で見上げる。
「リアン……」少年が言った。「リアン・フリードリヒ」
 その名前を聞いても、兄者の記憶に引っかかることはなかった。兄者は内心苛立ちつつ、尋問を続ける。
「ここはどこだ」
「フランスの、パリ……ごほっ」
「あぁ?」
 思わず、兄者は先ほどよりも一層凶悪な声を発してしまう。それから、少年の首を押さえつける左手に、もう一度体重をかけて、言った。「ふざけてるのか?」
 ヒューヒューと、間抜けな、隙間風のようなか細い呼吸音が、少年の口から洩れ出し始める。
……こんな状況で軽口を吐けるガキなんて、いるだろうか。
 内心首を捻りながらも、兄者は威圧することを止めない。不測の事態に陥っている、という状況によるものではない、何か──得体の知れない焦燥感が、苛立ちが、兄者の心臓にこびりついていた。
「っぐ、ざ、ぇ、っない、でぅ」
 兄者の左手に、今度は両手で触れながら、少年が言葉を絞り出す。海色の瞳に、生理的な苦しさから生じたのだろう、涙の膜が出来ている。少年が目を細めると、今にも決壊しそうな感じに膜が波打って、兄者はなんだかおかしな気持ちになった。
 そうして、兄者は鼻で笑い、吐き捨てるように言った。
「ここがフランスなわけねえだろ。 だって俺は」
 そこまで言って、はたと思考が止まる。だって俺は、……。
 兄者の手から力が抜けた。ついでに首を押さえつけるのを止めた。
「ゲホ、ゲホッ!  はぁ、はぁ」
「……」
 だって俺は昨日、仕事場から直帰して、さっさと風呂に入って、そしてソファに寝転がって……。
 そうだ、寝落ちしたのだ。紛れもなく、そうなのだ。
 兄者は首を回して、周りを観察した。
 レンガのような模様の壁の側に、少し錆のついたストーブが置かれている。床には複雑な模様の絨毯が敷かれ、部屋の中央には暗褐色のローテーブルがあり、そしてそのテーブルの左右にある、革張りで比較的質の良い2つのソファのうちの1つに、兄者と少年がいる。
 ストーブに接している壁には、2つの窓があり、その窓からは仄白い陽の光が差し込んでいる。その光のおかげで、今が夜ではないことは理解できた。
 窓に向けていた視線を、未だに咳き込んでいる少年に向ける。
 窓からの光を浴びて、肩に少しかかるくらいの白髪が煌めいている。小さな手が首を摩っていて、それを眺めてみると、華奢な手のわりに指が少し歪というか、わずかに太くなっていることに気がついた。それから、その歪んだ指の間に、真っ赤になった皮膚がちらちらと覗くのが見える。
「……ふざけてないって、分かって頂けました?」
 まだ少し苦しそうにしながらも、そう言ってみせた少年の口元には、緩い笑みが漂っている。
 それを見下ろして、言葉を返しかけた兄者は、自分の頬がわずかに引きつっていることに気が付いて、周りから見ても分からないくらいほんの微かに、自分の口角に自嘲を乗せた。
「あぁ、悪かった……いきなり酷いことしちまって」
 とたんに、顔の強張りが解けていく感じがする。白髪の少年が「それなら良かった」と言って、また微笑んだ。兄者もまた笑い返して、ソファに座りなおす。
 そっと、顔を少年の方に向ける。
「痛むよな……それ」
 先ほどとは打って変わって、兄者は少し気まずそうに少年を見る。少年は兄者の様子に気がついて、まぁ……と曖昧に笑う。兄者はまた「悪い」と言って申し訳なさそうな顔をし、海の底のような紺青の瞳で、少年を眺める。
……間抜け面。
 実のところ、その優しげな表情に反して、兄者の頭は冷えきっていた。さらにはここがフランスのパリだということも信じてはいなかったし、この目の前の少年も、なんだか懐かしい匂いの漂うこの部屋も、何もかも夢の中のことだと考えていた。
 当たり前のことだった。兄者が眠りに落ちてからこの空間が現れたのだから、そう考えるのは当然のことに違いないのだ。
 そして、「これは夢だ」と思ったときから、兄者の警戒心は霧散してしまっていた。
「ここはお前の部屋か?」
 何となしに兄者は問うた。その顔はぐるりと部屋を見回している。今では警戒心の代わりに好奇心が湧き上がっていた。兄者は元来夢を見ることが少ないので、こうして夢を夢と認識できるなんていう機会に恵まれるのを、なんとも新鮮に感じていたのだ。
 夢と分かったんだから、とことん楽しんでやろう。兄者は内心ほくそ笑んですらいた。なんなら機嫌もかなり良かった。眠る前のあの言い知れない焦燥や不安が、さっきまで自分の頭を狂わせていたが、これはただの夢だ。夢を見てまで怒る必要はないだろう。
「ええ、私の部屋というより、仕事場といったほうが正確ですけど」
「仕事場?」兄者はわずかに目を丸めて少年に振り向いた。
 見ると、少年はやはり間抜けな笑みを浮かべて座っている。
「はい、仕事場です」
 少年が首を少し傾けると、雪のような白髪がさらりと揺れて、やはりこれは夢なんだなと兄者は反芻した。
「お前、年いくつだよ」
「今年で17です」
 はぁ?と兄者が素っ頓狂な声をあげる。少年は待ち構えていたかのようにはははと笑い、続けた。「見えないんでしょう?」
「よく言われます」
「まぁ、17には……見えねえな」兄者はまじまじと少年を観察する。「俺はてっきり14、5くらいだと」
 少年は特に気を害した様子もなく、あははと笑った。言われ慣れているのだろう、と兄者は推察した(あくまで夢の中での設定だが、とも考えながら)。
 不思議な夢だな。兄者は思った。あまり夢を見ることのない兄者は、そのごく一部の夢に、ほとんど良い覚えがなかった。たまに夢を見たかと思えば、昔の、ずっと昔の思い出を、映画館で眺めさせられているような、そんな不快なものばかりだったのだ。
 兄者は首を捻りながら、質問を続けた。
「仕事場、っつったよな。 なんの仕事を……てか、学校は……中卒?」
「ガッコウ?」
 今度は少年が首を捻った。「なんですか、それ?  聞いたことのない単語です」
「はぁ!?」
「え?」
 お互いに目を丸めて目を合わせる。本当に変な夢だな。兄者は思った。
「学校……っていうのは、勉強をする施設だ。 子供を集めて、教師が継続的かつ計画的に勉強を教える場所」
「ガッコウ……」
 兄者が説明をすると、少年は至極真面目な顔つき──それでも中々に間抜け面だが──で、自身の髪の毛に左手を差し込み、ぐしゃぐしゃとかき混ぜ始めた。癖か?
 兄者は明らさまに馬鹿にした目で少年の様子を見下ろしていたが、少年がガバッと顔を上げたときには、胡散臭い薄ら笑いを携えていた。
「この国には『ガッコウ』というものはありません。 『チュウソツ』というのは、『ガッコウ』の派生……のようなものですか?」
 こちらを見上げる少年の瞳が、先程にも増してキラキラと光を放っている。それが妙にむず痒いような、酷く眩しいような、そんな感じがして、兄者はそっと目を細めた。
「そんなもんだ」
「なるほど」
 少年の瞳が笑う。海色の虹彩が、兄者の胸を抉るような、激しい追懐の念を引きずり出してくる。
「『ガッコウ』はお兄さんの国ではよくある物のようですが、私の国には全くない」少年が、左の口角を引き上げて、言った。「お兄さんの国と私の国には、根本から差異があるんですね」
……この表情は間抜けには見えないな。
「そうだな。 あと、『お兄さん』は気持ち悪いからやめろ」
 兄者が心底鬱陶しげにそう言えば、少年はとたんに目を丸くした。間抜け面。
 じゃあ、と少年が口を開く。また左口角に奇妙な歪みができる。
「改めまして……私の名前はリアン・フリードリヒ。 ここは私の探偵事務所で、『アトランティス』と言います」
 少年が、小さな手を差し出してくる。腹立たしいほど眩い白髪が揺れた。
「お名前を伺っても宜しいですか? ミスター」

 このぬるま湯のような明晰夢も、もうすぐ息苦しい悪夢に変わるんだろう。
 やっぱり冷徹なままの頭の片隅に、そんな考えが、絡み付いていた。

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星に巻かれて