プラムの気持ち
「焦凍くんっ!」
いつからそう呼ばれるようになったのか、思い出すのも難しいほどそう呼ばれることに慣れてしまった自分がいた。
俺を見つけては、まるで犬のように喜んで駆け寄ってくる苗字は、曰く俺を好きらしい。
特別可愛いだとか、美人だとか、スタイルがいいだとかはない。が、小動物的な愛くるしさはある。
身長の小ささも相まって一層小動物感をかもし出している。
「焦凍くん、焦凍くん、今日の放課後トレーニングしない?」
「焦凍くん、焦凍くん、お昼ごはん一緒に食べよう!」
「焦凍くん、焦凍くん、お菓子作ったから食べない?」
なにかあれば二言目には俺の名前だ。最初の頃は律儀に返事をしていたものの、最近は流し気味だ。
クラスメイトに言わせれば、あんな雑な返事だけでよく会話が出来るな、というのが大方の意見らしい。しかし、苗字自身はあんな返事だとしても、構ってもらえるのが嬉しいらしい。一度そう言っていた。
トレーニングに付き合うのはほぼ隔週だし、昼飯にいたっては片手で足りるほどしか一緒に食べたことはない。お菓子はまぁ……みんなと一緒につまむことはあった。
「苗字ー、お客さん。」
時刻は昼休み。ちょうど苗字が4限目の授業の道具を片付け終えて俺の方へと駆け出してくる寸前だった。早々に食堂へ向かおうとしていた上鳴に声をかけられて苗字の動きは止まった。
普段他クラスからこうして人が来ることなどそうないせいで、ほとんどのクラスメイトの視線が入り口へと注がれる。
俺も例に漏れず入り口へと視線を向けると、B組でも見かけたことのない男がそこにはいた。普通科か、経営科か、サポート科か。
一番後ろの席であるここからでは、入り口でなにを話しているかは喧騒に紛れて聞こえることはない。
男のほうが頭を下げている。なにか頼みごとだろうか。しかし聞こえない会話に興味は無いし、聞き耳を立てるほど無粋な真似は出来ない。
再び顔を落として机上を片した。慌てた様子の上鳴が机を叩いて顔をあげれば、もうそこに苗字と男はいなかった。
「轟!ちょっと来い!」
返事も待たずに腕を引かれてつんのめりながらどこかへ向かって一直線に走っていく上鳴にわけがわからずついていくしかなかった。
フロアをいくつか上れば、昼休みは人気が全くといっていいほどなかった。こんなところに連れてきてなんなんだと口を開きかけたそのとき、人の声が聞こえた。
物陰からこっそり覗くよう上鳴にヒソヒソと告げられ、あまりの真剣な表情にそっと声のする方を覗き込んだ。
見えたのは誰かの背中と、その奥に佇む苗字の姿。
「どこかで会ったことありましたっけ……?」
「名前さんは俺のこと知らないかもしれません。」
こんな聞き耳をたてるようなことしたくはなかったが、会話の様子が気になってしまった。男は明らかに親しげだというのに、困惑する苗字の声が異常さをかもし出している。
「俺、名前さんのこと体育祭からずっと見てたんです。でも、最近ヒーロー科は寮が出来ちゃったじゃないですか。だから、もう言うしかないなって思って。」
聴覚だけが、やけに発達してしまったかのように、二人の会話だけがクリアに聞こえる。
「好きです。付き合ってください。」
その言葉を聞いた瞬間、なにかどす黒いようなものが俺を支配した気がした。一瞬だったそれは、自分でもなにか判断がつかなかった。
初めての感情は、どう抑えていいかわからない。無理やり自分の中へと閉じ込めて、苗字の声を待つ。
「ごめんなさい。」
凛とした声が空気を揺らした。その声はまるで薬のように俺の感情を抑えていく。しかし、それもすぐに打ち消された。また、苦しいような、切ないような、怒りににた感情が俺を支配する。
「あの、じゃあ友達でもいいんで!連絡先とか、休日遊びに行ったりとか……」
男はなおも食い下がる。無意識に拳を握り締めて、今すぐにでも二人の会話を強引に止めたくなる。
「私たちは、土曜日も授業があります。休日を利用して、インターンや個性の鍛錬、やることがたくさんあります。なので、遊びに行く暇はないですし……私は好きな人がいるので、本当にごめんなさい。」
その声は、まっすぐに誰もいない廊下を駆け抜ける。はっきりと告げられた拒絶に男が駆け出す音が聞こえた。足音はこちらに向かって来ている。通路はここしかない。
聞き耳を立てていたことがばれるかと思ったが、男は相当ショックだったのか息を潜めていた俺たちに気付くことなく駆け抜けていった。
もう一つの足音は聞こえない。そっと再び覗き込めば、苗字は下を向いている。長い髪が顔を隠して、表情を見ることは出来なかった。
そろそろ戻ろうと振り返れば、上鳴はもういなかった。いつの間に消えたのかわからないほど、二人の会話に集中していたらしい。
ぱたぱたと、後ろから足音が聞こえる。苗字も動き出したらしい。今から足音を立てず苗字から逃げ切るのは至難の業だ。そうとなれば、開き直るしかなかった。
ちょうど角に差し掛かった苗字の影が見える。咄嗟に見た表情はどこか泣きそうで、思わず苗字の腕を掴んだ。
「きゃああ!」
そこに人がいると思っていなかったのだろう。驚いた苗字の悲鳴が響き渡った。そして、驚きで真っ青だった顔は俺を認識したせいなのか、すもものように真っ赤に染まった。
「えっ、焦凍く、えっ、今の聞いてっ……!?」
混乱しているのか、せわしなく言葉を紡いでいる。きっとこんなに慌てている苗字は俺にしかさせることが出来ないし、俺だけしか見ることは出来ないんだと思うと、心地がよかった。
「苗字、今日一緒に昼飯食おう。」
ぶんぶんと、首が取れるんじゃないかと思うほど頭を立てに振る苗字はやはり犬みたいだ。
苗字の腕を掴んだ右手が、左に侵されていくように熱く感じる。
この感情に名前をつけるのはもう少しだけ待って欲しい。それまで、苗字は待ってくれるだろうか。
- 134 -
←→
(
戻る)