遠回りのノクターン
『ねぇ、鋭児郎……明日、オフだよね。家、行ってもいい?』
「別にいいけど……いつも突然来るのに、聞いてくるなんて珍しいな。」
『うん、ちょっと……大事な話がしたくて。』
名前の声はどこか重々しくて、緊張しているような声だ。じゃあお昼過ぎに行くね、とだけ言われて電話は切れてしまった。
わざわざ時間を作ってまでしたい大事な話、とは一体なんだろうか。思い当たる節が無いわけではない。
結婚。
付き合ってもう7年だ。お互い、年齢的にも意識したことがないわけではない。名前からも、そういうオーラみたいなのを感じることが何度かあった。
俺だって何回もそういうことを考えたし、結婚するなら名前とがいいと思っていた。指輪だって買ってある。
けれど、長すぎる付き合いの中で言い出すタイミングが見出せず、未だに指輪は名前の元へ行くことなく丁寧にしまいこまれている。
もしやそれに業を煮やして決断力のない男だと思われてしまったのだろうか。
名前は俺から言うのを待っているようだったし、その程度のことを言う勇気もないみみっちい男はごめんだ、と言われてしまうのだろうか。
大事な話の内容が気になって結局眠れず、気付けば太陽が部屋を照らしていた。
名前が来るまでまだ時間はある。それまで寝ていようとベッドに体を預ける。すぐに睡魔はやってきて俺の意識をさらって行った。
*
「あ、起きた。」
つんつんと頬が突かれる感覚に目を覚ませば、目の前に名前がいた。驚いて飛び起きれば、時刻は14時を指している。
「わ、わりィ!気付かなかった!」
「大丈夫。リビングで待ってるから顔洗っておいで。」
頬を指差されて手の甲で拭えば僅かに濡れていて、急いで洗面所で顔を洗った。
冷水に触れたせいで、一気に目が覚めてきて寝不足の原因となったことを思い出した。
だが、先ほど見た表情はそういうことを思いつめたようではなかった。だが、何かを思い悩んでいることは間違いない。わざわざ連絡してから来るほどだ。よっぽど大事なことなんだろう。
顔を拭ったタオルを洗濯籠へ放り投げて、急いでリビングに戻る。下を向いていた名前は俺の足音を聞いて顔を上げたが、やはりどこか浮かない顔をしている。
「鋭児郎、大事な話なんだけど……あのね、その……。」
俺が腰を落とした途端に、名前が口を開いた。しかし、その言葉はどこか不安に揺れていて、なかなか先へ進もうとしない。
名前がこんなに端切れ悪く話すのは初めてかもしれない。静寂が部屋を包み込んだ。カチカチと時計の針が時を刻む音だけが聞こえる。
「……やっぱり、なんでもっ、」
「名前、大事な話……なんだろ。」
どれくらいの時間がったったのか。感覚さえ奪う静寂に堪えかねた名前が立ち上がろうとしたが、努めて冷静に腕を掴んだ。名前の先の言葉を知っているわけではないから、正直心臓はばくばくしている。
でも、聞かなきゃいけないような気がしてならないんだ。
観念したのか、再び名前が腰を落とした。少しの静寂の後、ようやく重い口を開いた。
「あの、ね……実は……こども、出来たみたいで……。」
どんどん言葉尻が小さくなる名前だったが、予想外の言葉に思わず固まってしまった。
こども。俺と、名前の、こども。
何度も何度もその言葉を咀嚼して、飲み込めた途端、弾かれるようにして俺は立ち上がって大急ぎで寝室へと向かった。
寝室の棚の一番上。奥の奥へと大事に仕舞いこまれたそれを持って、また大急ぎでリビングへと戻った。
俺が急に居なくなったせいで、悪い方向へと捕らえてしまったらしい名前がうつむいている。
「名前、聞いてくれ。」
「や、やだ……私、別れたくない。」
ふるふると力なく頭を左右に振っている名前の声は震えていて、泣いているようにも聞こえる。
優しく、優しく名前の肩に触れて俯いていても見えるように持ってきたそれを差し出す。
「名前……これ、受け取ってほしい。」
手のひらに乗るほど小さな小箱。それがなにを意味しているのか、わからないほど名前は鈍くないはずだ。
震える手が、俺の手に触れる。握り締められた小箱の重みが手のひらから消えていった。
「鋭児郎……これって……。」
「順番、逆になっちまって悪い。そのせいで不安にもさせちまったよな。結婚しよう。生まれてくる子と三人で、ずっと一緒にいよう。」
ようやく顔を上げた名前の瞳には、涙が滲んでいて反射的に抱きしめた。そっと背に腕を回してくる名前が愛しくてたまらない。
引き寄せられるように口付ける。甘くて柔らかい果実のような唇をずっと味わっていたくなる気持ちを押さえ込んで、顔を離した。溢れんばかりの愛しさを唇に乗せて喉を振るわせる。最上級の気持ちをこめて。
「名前、愛してる。」
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