不眠の理由


今日は自主トレに力を入れすぎた。室内トレーニングはたっぷり時間のある日じゃないと、ついつい時間を忘れてしまう。

まだまだ日は長いと余裕ぶっていたのがいけなかった。夢中になっているときの体内時計ほど頼りにならないものはない。

そろそろ頃合かとスマホを点灯させて時間を確認すれば、想定していた時間を大幅に超えていた。

急いで寮に戻って夕飯を済ませ、風呂にかけこんだが、もう数人が談話スペースで話しているだけでほとんどのクラスメイトが寝るために自室へと戻っていた。

俺ももう眠いので温まるのもほどほどに風呂を出ると、談話スペースのソファから頭が一つだけ見えている。


「苗字か?」


少し癖のある長い髪は、苗字しか思い当たらなかった。風呂に入る前はいなかったから、眠れなくて温かい飲み物でも飲んでいるのかと声をかけたが、返事はない。

間違えたのかとそっと近寄れば、予想通り机には半分ほど飲んだ形跡のあるマグカップがあった。


「苗字?」


もう一度声をかけてみたが、やはり反応はない。顔を覗き込めば瞳は欠片も見えず、どうやら眠っているようだった。

こんなところで寝ていては風邪をひいてしまうと軽く揺すったが、起きる気配はない。どうやら熟睡しているようだ。

チッチッ、と時計が針を動かす音に融けるような寝息がすぐ近くで聞こえる。誰もいないことを再度確認して、隣に腰掛けた。

少しソファが沈んだせいで、苗字が小さく身じろいだ。それでも起きる様子はなさそうだ。

無意識にごくりと喉が鳴る。

どくどくと心臓が早鐘を打っていて、耳元で本能が囁いてくる。

普段は制服で見えない太もも、規則正しく上下する胸、閉じられた瞳を彩る長い睫毛。

目に毒といってしまえばそれまでのこの状況。

本能に抗いきれずに指先がそっと苗字へ向かって伸びていく。あとわずかで苗字に触れられる、そう確信した瞬間、偶然にも苗字が小さく体を捩らせた。

慌てて手を引っ込めて、ばくばくと更に心臓が存在を主張してくる。吐き出す呼吸も自然と短くなる。

しかし、苗字は起きることなく眠り続けている。

少し冷静にはなったものの、扇情的な苗字は変わらない。また同じような欲求が湧き水の如く体を、頭を支配していく。

動いたせいで苗字の顔がこちらを向いている。薄いピンクに色付く唇と、目が合ったような気がした。

柔らかそうなそれは、一体どんな味がするのだろうか。今度は止まることのない指先が、唇をなぞった。

ふに、と指が吸い付くような感覚に本能の声が大きくなっていく。

しかし、理性がそれを止める。いくらなんでも付き合ってもいないのに、これ以上は危険だ。知られれば嫌われたっておかしくない。

唇から離した手を、頬に滑らせる。さらさらとまるでシルクを撫でているような感覚の心地いい肌を堪能する。

堪能すればするほど、理性の声は小さくなり、本能の声が大きくなっていく。

右手はそのまま苗字の頬へ、左手は更に奥の肘置きへ置いて、少しずつ少しずつ苗字に影を落としていく。

距離が縮まるごとに心臓の音は大きくなっていく。この音で苗字が起きてしまわないか心配になるほどに。


あと僅か。そんな折に響いたポーン、という今までにはなかった音。しかし聞き覚えはある。これは……――


「あら、轟さんなにしてますの?」


「……いや、風呂から出たら苗字が寝ていて、起こしたんだが起きそうに無かったから運ぼうかと。」


正直、現れたのが八百万でよかったと思ってしまった。苦し紛れとはいえ、八百万ならこの言い訳が通じるだろう。自身の手が死角になっているうちに肘置きへと置いていた手を苗字の膝の下に滑り込ませる。

頬を撫でていた手も背中を回って肩を抱いた。

先ほどより密着しているのに、先ほどのほうがドキドキしていた。


「そうですわね、こんなところで寝てしまったら風邪をひいてしまいますわ。」


八百万の肯定を得たところですっと苗字を抱き上げれば、その軽さに驚いた。性別が違うだけでこんなにも軽いのか。

さすがに一人で勝手に女子の部屋へ入るのはためらわれたので、八百万にもついてきてもらって苗字を部屋のベッドへと寝かせた。

整頓された部屋は女の子らしくて、妙にドキドキする。今度は苗字が起きているときに、二人きりでこの部屋にいたいと願望が湧き上がる。


「おやすみ、苗字。」


名残惜しくも苗字の部屋をあとにして自室へと戻った。手のひらに、指先に残った感触を思い出してしまう。


今夜は眠れそうも無い。

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