8-1


 降谷はシャワーと着替えの為に一度帰宅したものの、すぐに仕事に戻った。家に着いたのが丑三つ時で、家を出たのは朝日よりも早かった。少し仮眠がとれただけでも良いほうだ。
 閑散とした捜査本部で――それでも無人ではない――コーヒー片手に、パソコンの前に座る。
 ガヴィの追跡は急ピッチで進められており、現在は、救急車を見失った周辺地域の空き部屋や医者の洗い出しを行っている。見事だが派手な逃亡劇だ、早ければ数時間以内に目星をつけられるだろう。
 降谷はパソコンを操作しながら、残っている部下に声をかけた。

「動画は、ここのフォルダで全部か?」
「はい。二本目は彼、三本目は彼、四本目は僕が。一本目は情報担当官が見ていましたが、さっき降谷さんと入れ違いでコンビニ行きました」
「じゃあ俺は五本目開くか……」
「あ、差し入れのチャージ飯もあるんでよければどうぞ。固形物もありますよ」
「後でもらうよ」

 降谷が眺めている映像は、ガヴィを追跡するためのものではない。拘束中のガヴィの監視映像と、現在謹慎中の部下の行動を辿ったものだ。丁度自宅を出るときに、情報担当官から映像収集完了の報せがあったのである。
 携帯許可のおりていない銃を持ち、重要参考人を撃った彼は、撃ったこと自体ほとんど覚えていなかった。誰よりも自分の行動に驚き、動揺し――公安の人間らしくすぐ平静に戻ったものの――憤っていた。「まさか自分が撃ったなど信じられない」と言いながら「撃たなければならないと思った」と口にした。
 大半の人間が、彼の行動は過度なストレスによる突発的な行動であり自制出来なかっただけだと非難的だが、降谷を含め、ごく少数の人間は別の仮説を立てた。洗脳、マインドコントロールの類ではないか。彼はどこかで、暗示を受けたのではないかと。
 もちろん、そういったものに対抗する訓練も受けている。だが、何事も絶対ではない。日本警察(こちら)の上をいく犯罪者がいてもおかしくないのである。非常に腹立たしくはあるが、ガヴィという例もある。
 そこで、ある程度目処のたったガヴィ追跡を風見に任せ、降谷は監視カメラ映像のチェックに取り掛かっていた。
 件の部下の行動は、ガヴィ逮捕直後から発砲までの間、監視カメラに写っているもの全てを集めてある。彼が現れる前後数時間を収集しているので、とんでもない量になっていた。
 早送りで一つのファイルを見終えたタイミングで、同じ作業をしていた部下がコーヒーのおかわりを持って降谷の近くに移動してきた。

「お疲れ様です」
「ああ、お疲れ。ありがとう」
「いいえ。息抜きに聞きたいんですけど」
「うん?」
「暗示、遭遇したことあります?」
「催眠かけられそうになったことはあるな……実際に暗示にかけられた者の行動に遭遇したのは初めてかもしれないな」

 感覚遮断、という意識障害状態がある。洗脳やマインドコントロールを行うにあたり、知られている手法の一つだ。外界からの感覚刺激を減少ないしは遮断することで、人は幻覚を見るという。ただ、恐怖を幻覚として体験しているのではなく、健康な反応であり、神秘主義や変性意識状態との関連も指摘されている。幻覚体験をカルト思想に結び付けることで信者を獲得する集団も存在はしているが、リラクゼーションの一手法として心理療法の方面からも研究されている。
 人の思想を丸っきり挿げ替えるような洗脳はそうないが、簡単な催眠と暗示はコツさえつかめれば誰でも出来る、というのが降谷の見解だ。
 今回降谷が注目したのは、狭義の感覚遮断ではなく強制的単調化だ。
  
「おそらく彼は、どこかで誰かから、"ガヴィを撃つ"ないしは"ガヴィを殺す"という暗示を受けた。決定的なトリガーが何かは分からないが、ガヴィは取り調べ中、デスクを指先で叩いていた。アレで煽ったんだろ」
「航空機パイロットはメンタル痛めてる人が多いっていうのと同じ、でしょうか。変化の乏しい空間で、モーター音だけを聞き続けるっていう」
「パイロットは責任感やらなんやら重責があるからってのも、一因だろうけどな」
「暗示を受けていた彼は、ガヴィのメトロノームで暗示を行動に移してしまったと」
「結果的に暗示が解けて良かった、というのは……いくらなんでも言えないが」
「まだ暗示だと確定したわけではありませんし……。あの、降谷さんは出来ますか。例えば俺に"某が特定の行動を取ったら某を撃て"という暗示を」
「既にかかってるだろ」
「……はい?」
「"違法捜査してるFBIを見かけたらぶん殴れ"って」 
「あはは、室員は全員かかってますね」

 薄いクマを携えた部下の肩を乱暴に叩いて、デスクへ送り返す。次の動画ファイルを読み込みながら、壁掛け時計を一瞥した。
 出来るか出来ないかで言えば、出来るだろう。
 疲労の蓄積、ごく軽度だが栄養失調、映像を見続ける単調な作業、普段なら気にも留めない秒針の音。そこに降谷という上司への信頼が加われば、膳立ては整っている。

「……いや、しないけどな」

 そもそも誰だって、自分の任務に関わる重要な行動を赤の他人に託す、という暗示の大前提が難しい。
 部下が降谷らの仮説通りに暗示にかかっていたとすれば、ガヴィ逮捕を受けてから行動を起こしたことになる。対象の選別、接触、その後の仕込みまで完璧だ。思い切りの良さが突き抜けている。
 暗示の有無さえ定かではないが、仕掛け人がいたとすれば、ガヴィと同等の強敵なのは疑いようもなかった。
 

 数時間かけて映像を二周したところで不審な男の特定に至り、その数時間後、風見から連絡が入った。
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