5月A 探偵の帽子編

突然あがる悲鳴。叫び声。その声は遠くはない距離のものであり、結論を言うとすぐ近くから、蒼が今しがた通ってきた場所で発せられたものだった。なんだなんだと立ち止まる人々を追い抜いて蒼は立ち止まることなく進む。リュックの取っ手を握る力が強くなる。まわりの人間に気づかれるはずもないから、今彼女が恐れているのはまた違ったことだった。

「…演者だなぁ」

 自分には真似できない。間もなく赤松は他の人間に見つけられ、保護され、事情を説明させられるのだろう。不安はあるが、きっと先ほどと同じように彼女は完璧な演技をしてくれる。まわりを欺いてくれるはずだ。赤松は本来人を騙すような人物ではない。なので猶更人は彼女の言葉を疑わない。もし赤松が泣きそうな表情で震え、自身の鞄が盗まれたと叫んだとしても…それを否定できる人間は蒼含めて誰もいない。そこに、さらに彼女が作るとは思えない怪異文。

『ピアニストの持ち物 カエシテほしい? 一日後の『家路にて】 【君はドコデ生きるのが好き?】』
その下に小さくこう添えておくのも忘れなかった。
…私は66の作品の中で161人殺してきたけれど、私自身は生きることが大好きなの

 そして今現在、下手をすれば蒼は高校生活を初めから台無しにしかねない状況に自身を追い込んだというわけである。意図的かつ協力的に。実際、怪異文も今回のことも赤松との共同計画ではあるが発案は蒼だ。それは一体誰のため、何のために行うのか。答えはこの話が誰を中心としているのかの解と同義。

こうして蒼と赤松と今回の意図的な事件の解決者である最原、三人の友好からの奇妙な対抗は始まった。



「とは言っても、私ができることは現時点で特にないのかな」

 修正。ここで自分ができることは全くと言っていいほど、ない。現時点で蒼の役割はほぼ完遂されたと言っても良い。具体的にはまだやらなければならないことが一つ残っているが、それはもう少し後の話でなければならない。そうなるとやはり赤松だけが重労働に苦労する展開になっているだろうが、そこに関しても蒼が口出しできることもなかった。発案者は蒼で、共同と許可は赤松から出たのだと先程の一文に加工しておく。
 
 現在彼女は学校内にあるカフェで一人オレンジジュースをすすっていた。全国的にも有名な、緑色のエプロンの従業員が早口で商品を捲し立てるあのカフェである。学生歓迎の態度のこの店で蒼は勉強をしていた。高校生になってからは機会はめっきり減ったが、昔は足しげく通ってはここでオレンジばかり飲んでいたのだ。他の物を飲まないなんて勿体ない、と西園寺や罪木によく呆れられたものだ。しかしどうも他の飲み物は舌に合わなかった。比べようもないのでわからないが、水と果汁系の飲み物以外は飲んだ気がしない。そこにあるはずだと思って食べたら何もなかったかのように、飲んでも乾きだけが喉に残されるのだった。

「隣、良いっすか?」

 ノートに影がさし、やや低い声が近くに響く。天海蘭太郎は待ち合わせをしていたかのように自然に話しかけてきた。他には見ない緑色の髪に並んだピアスはどことなく浮ついた内面を思わせる。

「あ、天海君。バイトはもう終わったの?」
「今日は休みっすよ。…にしても、えらいっすね。勉強っすか」

 もっとも。もし本当に浮ついた、俗にいうチャラい男だとしたら蒼は彼に取り合うことはしない。そうしないということはもう彼の人柄は若干認知されたことだろう。週に何度かバイトをしていると知っているくらいには蒼は彼と面識があった。交友の輪を自分から広げた訳ではない。人に対して友好的でもなく、かといって冷たくもなく、しかし自分から友人をつくらない彼女は例のごとく過度なまでの受け身の構えで友人をつくった。それが天海である。人の好い人は相手に関係なく接する、という方程式は誰にでも当てはまるのだろうか。

「まあ…一応広げてるだけだよ。いつもはやらないんだけどね」
「…そうっすか」

 質問に答えたのにも関わらず釈然としない様子なのは、蒼が何か釈然としない言葉を返したからだろう。しかし彼女にはそれが分からなかった。首をかしげると、天海は困ったように頭をかいて正面に座る。「聞いて良いことなのか、分からないっすけど」そう言いつつモラルより好奇心を優先して彼は指さした。

「…どうして一ページも書かれていないノートを開いて、筆箱も出さないで一心にそれを凝視しているのかと思って」
「………」
「…何か、悩み事っすか?」

 人の好い人に心配させてしまうあたり自分は人が良くないのだろうと蒼は思った。加えて、相談できることは何もない。まさか現在進行形でピアニストの鞄を本人の目の前で盗み、計画上では彼女がまわりに話し、最原と協力して残された怪異文を共に解く、その過程で敏い探偵に事の真相が早々にばれているのではないかと気がかりで心配だなどと誰が言えるだろうか。自信はないが能力は抜群の超高校級。見透かすところまで見透かされるのは困る。特に今回の計画は何十日も二人で考えたものなので、一瞬でそれが解かれてしまうのは彼女たちにとってもいただけない。…と考えを巡らせたものだが、やはりそれも一言たりとも言うわけには行かないのだった。

「いや、特にないよ?真っ白いページを見ると頭も真っ白になるから、そうしているのが好きなだけ」
「…気分を真っ白にしたいことがあった、ともとれるっすよね?」
「うーん、人間真っ白にしたい時以外に頭が真っ白な時ってないと思うよ」
「そうっすかね?寝ている時とか、ボーっとしている時とかはどうなんすか」
「それも含めて、頭を真っ白にしたいと思う現象だよ。寝るのは考えていることを放棄しているから。辛いことから逃げてストレスのない夢の世界に行けるから。ぼんやりしている時をつくるのも一種の現実逃避。本当はやらなきゃいけないことがあるのに楽なことをする。考えることを放棄する。そういった人の習慣を私の場合ノートを見ることにあてているだけ。ただそれだけのことだから」

 言葉を重ねながら、蒼は次は自身に首をかしげることになる。えらく流暢に言葉を紡ぐではないか。いつもなら天海の言葉に返しに詰まり彼を余計に心配させることになるはずなのに、出された言葉はきっと彼を怪しませた。蒼に嫌悪感を抱かせた。何かを取り繕うとき自然とこうなるのだろうか。天海は何も言わずに目を細めて彼女をじっと見た。途端、抑え込まれていた焦りが溢れ出す。冷や汗が伝うのが分かった。

「え、あ、…ご、ごめん。生意気な口きいたよね。らしくないなぁ…」
「…いや、気にしてないっすよ。むしろ意外に思ってるっす。蒼さんってそんな風に考える人なんすね」
「いや、そんな風っていうか…ごめん。今日はもう帰るよ」
「気にしなくていいっすのに」

 果たして今の考えは本当に蒼のものだったのか、それすら言葉を出してしまった現時点定かではない。何故あんなことを言ってしまったのか。才能を持つ彼には分りきったことであろうに。超高校級と呼ばれるだけの能力を持つ彼らに彼女が言うべき発言ではない。才能は一番なのだから、それを否定するように挑むように向かってはならないというのに。才能というものは____

「……あれ、」
「どうしたんすか?」
 立ち上がった表紙にノートがゆっくりと地面に落ちる。鈍い音を響かせ開かれたページには何も書かれていなかった。蒼には、それに関する知識が抜けていた。

「…天海君、君の才能って___何だっけ」
「…さあ、何すかね」

 結論。人の好い人は他人に関わるだけ関わろうとはするが、他からの介入は流すように避けるのだ。その点は自分と同じようなところがあるものだと蒼は思う。そんな彼女に天海は、『超高校級の???』は初めて笑う。口元だけ綺麗に笑って見せた。

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