5月B 探偵の帽子編

 次の日の学校は平凡のようで非凡であったと蒼はのちに回想する。見せかけの日常だった。いつものようないつもだった。というのも赤松が落ち込んだように分かりやすいくらいに肩を落とし、それを気遣ってか最原がちらちらと分かりやすいくらいに目線を送っている、やもすれば気があるように見えなくもない光景を近くで見せつけられたからである。事情を知っている蒼にはそれは正常だったが、実際何人か敏い面々に最原は囃し立てられていた。慌てて否定している最原を遠目に見て申し訳ないと見えないように片手を添える彼女。それを見て蒼も見えないように同じことをした。あの二人、意外と良い感じなのではないか。

「蒼。お主、次の週末暇かの?」
 呑気な声が自分にかかったと気づいて体を傾ける。超高校級のマジシャンこと夢野秘密子は自身の手品を魔法であると豪語する。実際その力は底知れず、現実にそぐわない魔法という二文字を抜けば彼女は世界中で注目されているマジシャンなのだ。

「暇だけど…どうかした?」
「夢野さんが魔法を見せてくれるんですよ!」
「秘密子のマジックショーをみんなで見ることになったんだけど、蒼もどぉー?きっと楽しくなるとアンジー思うなー!」

 近くにひょっこりと現れた茶柱と超高校級の芸術家である夜長アンジーは夢野と仲が良い。というより夢野中心の仲良しグループとして早くも出来上がっていた。
 それにしても…マジックショー。夢野の才能はもともと知ってはいたが実際に見る機会はなかなかかなわずにいた。これはまたとない機会である。是非とも行きたい。そんな期待半面蒼には何か不穏な虫の知らせを感じずにはいられなかった。根拠がない、不安要素の分からない不安。何かマジックショーにトラウマでもあるのだろうか、それでも彼女の提案を断る選択肢を蒼は持ち合わせていなかった。

「私でよければ。来週で良いんだよね?」

 赤松や最原も事が終わっている頃だし連れて行こうか、と考えていた彼女もまた呑気なものだったのだろう。事実、本当に警戒して断りさえすれば事件という事件はそもそも起きることがなかったのかもしれない。それもこの事が語られる今となっては後の祭り、覆水盆に返らず。一週間後にまたも大事件を呼び寄せてしまうことを、蒼はもちろん他の誰も知る由もない。



「さ、最原君!」
「赤松さん、こっちだ!!」
 チャイムが終わると同時に駆けていく二人組。ぽかんとそれを眺めるクラスメイトを他所に蒼は素知らぬ顔で帰路につこうと教室を後にする。後にしようとはした。何度も言うが今回は平凡のようで非凡。イベントがないようで何かしらのハプニングが重なった日だった。だからそんな日に2組のドアが彼女が通りすがった時にピシャリと開いて中から人が飛び出し、彼女もろともぶつかって壁に叩きつけられたとしてもそれは半ば不思議な話ではなかった。痛みはあったのだが。

「ぐぇ……」
「わわ、大変だぁ!!可愛い女の子が下敷きにぃ!!」
「ちょ、狛枝!!あんた何やってんのよ!」
「…うぇ?…ああ、本当だ!ごめん3組の西園寺さんと罪木さんといつも一緒に寝泊まりしてる蒼さん!!」
「…な、んで全部知ってるの…」

 少なくとも蒼はその二人以外他クラスに友人を持たないので噂の出所が彼女からだとは到底考えられにくいし、西園寺たちも蒼の容姿を事細かに他の人に説明して回っているわけでもないであろうに。鈍い腰の痛みにうずくまっていると、狛枝と呼ばれた目の前のぶつかってきた男が突然はじき出された。その代わりに例の二人が蒼に駆けよって抱きしめてくる。

「蒼おねぇ!!大丈夫!??」
「うん、なんとかなんとか」
「ふぇぇ…腰をすっかり痛めてしまったようですぅ…ごめんなさぁい!パンツ脱いだり四つん這いになったり何でもするから許して下さいぃ!!」
「そんなの女の子がやるものじゃないよ。大丈夫だから、本当に」

 そうは言っても、彼女の被害を真正面から見た過保護二人は蒼が大けがをしているように見えているようなのだった。慎重に立たせて全員に手を振る西園寺と罪木。

「今日はこれで帰るね。こう見えて蒼おねぇは弱いんだから誰かが支えて帰らないと!」
「ということで皆さん、今日はおいとまさせてもらいますねぇ」
「…え、いいんだよ?この後二人共予定とかは」
「ないないないないから!!いいから帰るの!!…狛枝、あんた明日覚悟しなさいよ!」
「はは。投げ飛ばしたのは西園寺さんだけど…不運に巻き込んでしまってごめんね。蒼さん達も、また今度」


 バタバタと風が通り過ぎるように白い髪が小さくなっていく。別に急ぐ用事もないだろうに、蒼を連れる二人は些か不機嫌のようにも見えた。どちらかと言えば西園寺だが。毒舌で周囲を惑わす彼女を本気で切れさせ投げ飛ばすという所業までなさせたというのは、あの狛枝という白い男はどこまで勇敢なことをしてしまったのだろう。基本的にプライベートは聞かない態度でいる蒼だが、今回はさすがに気になった。

「ほんっと、どうやったらあんな風に転んで亀甲縛りになるのさ!どんだけ柔軟なイカなのよあいつ!」
「よもやその紐が切れて拍子にとんでもない恰好で転がっていくとは…蒼さんもさぞ怖かったですよねぇ?」
「………うん」

 うん、それは聞かないで置いたほうが良いだろうという意味の返し、相槌代わりの決心を蒼は二人に述べることになった。



「蒼おねえー!ご飯だよー!」
「うん、今行く!」

 西園寺は料理が得意である。特に和食に関しては誰にも負けない優れた腕前を持っていた。週の大半は西園寺に料理を任せ、罪木には洗濯、蒼は時折の掃除と寮ならではで三人で分担して上手くやっている。ちなみに今日は焼きサケのすりおろし大根のポン酢あえに肉じゃがである。三人そろって頂きますと料理に舌鼓を打つ。罪木はとろけそうな顔ではふはふと彼女の手料理を頬張り、かくいう蒼も夢中になってご飯をかきこむ。うむ、美味しい。いつものように賛辞を述べようと西園寺を見ると、ふくれっ面でこちらを睨む目線と重なった。

「…?どうかした?」
「………」
「…西園寺さん?どうしましたかぁ?」
「…なんかさ、最近冷たくない?」

 思わぬ言葉に箸を動かす手が止まる。冷たい、冷たいとは何が。彼女の目線は常にこちらに注がれているのだから自分の何かが冷たいのだろう。加えて俗にいう冷たさが物理的なものでもないことは分かっている。蒼の人間性に冷たさがあったというのだ。それは一体。思考を巡らせ言うべき言葉を探していると、目の前の彼女の震えが見え、余計に混乱。

「さ、西園寺さぁん!?」
「ひ…酷いよ蒼おねぇ!!蒼おねぇは私たちのこと何とも思ってないんだぁ!!」

 突如噴火した西園寺に為すすべもなく目を合わせる蒼と罪木。彼女はややヒステリックになるところがあるが、果たして何が彼女をそんなにしてしまったのか。思い返しても思い当たる節がないといよいよ話は困難な状況に追い込まれてきた。彼女が何も発さないのを見ると、拗ねたように食器を鳴らして立ち上がった彼女はどんどん離れていき、しまいには寝室に閉じこもってしまう。

「…え、何、私何かした?」
「…私たちを何とも思っていないととれる何かを…したのでしょうかぁ…よく分かりません」

 二人でドア越しに何度も呼び掛けても返事はなく、代わりに鼻水をすする音が聞こえてくる。どうしたって今の自分は何を謝ればよいのか皆目見当もついていないし、西園寺もそのことを承知しているのだから事態は一向に好転する兆しを見せない。
時間は刻一刻と過ぎている。もう寝なければならない時間まで差し掛かった。このまま時が過ぎて許すのを待つしかないのだろうか、と諦めかけたとき、罪木が再度ドアをノックして見せた。何かわかったのかと蒼が目線を送るとにっこり笑って目で語り掛けてくる彼女。私に任せてください、と。

「西園寺さん、分かりますよぉ。…寂しいんですよね、最近蒼さんが一緒にいてくれなくて」
「…え?」
「入学して少ししてからずっと忙しそうにしてましたから、無理ないのは分かっていたんですけどぉ、そ、それでも皆同じ場所にいないと悲しくなりますよねぇ。だって私たち、家族みたいなものですから!」
「………」

 そう言われて、そう考えてみると、確かに蒼は二人と関りを持てていなかった。赤松や最原、他のクラスメイトと親交を深める形で彼女たちとの生活から何歩か離れようとしていたのかもしれない。そんな気持ちが少なからずあり、それが西園寺には分ってしまったのだろう。口は毒だが心は優しい子であった。
 なるほど、蒼は周りのことを考えようと思うあまりに近い存在を無下にしていたのだろう。それは無視と同じで、無視はその人の否定と同じだ。自分を家族だと思ってくれる相手に対してやってしまった今回のこと。申し訳ない。しかしそれは取り返しのつかない。ならばどうすればよいのか、蒼は答えを知っている。

「…ごめんね、西園寺ちゃん」
「………」
「今日一緒に寝よっか。…これからは二人のこと、もっとちゃんと大切にするから」

 過去は取り戻せない。だから代わりに未来を補うのだ。これは二人からの受け売りである。今回はそれになぞって、その通りのことを言った。多分これが正解なのだろうと信じて。

 次の瞬間、勢いよくドアが開いた拍子に生まれたての赤ん坊のような泣き声が耳をつんざいて二人にタックルしてきたのだから、最終的にやはりそれは合っていた。わんわんとしがみついて泣く彼女にもう寂しい思いはさせないと誓うと大きく頷いてくれ、罪木も朗らかに二人を優しく抱きしめたのだから、きっと自分は幸せなのだろうと蒼は認知した。認知して、幸せなふりをして笑って見せた。

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