5月C 探偵の帽子編

さて、もう疑問に思っても良い頃であろうか。蒼の行動と実際の現状との矛盾についてである。ここまでを読んでみてわかること、それは蒼が文字通り『何もしていない』ことであり、結論を言うと彼女たちが計画している路線では最後まで彼女は何もしない。何も出来ないはずだった。蒼の介入と言えば一番初めの怪文書の作成ぐらいで、こうして数日が経過した今尚赤松は最原と共に事件の真相を解き明かそうとしていた__らしい。そのことを含め事件の全容が明らかにされないのは、これが彼女に視点を置いた景色に沿って説明されている文であるからに他ならない。

 ここでもう一つ。何故この事を今になって言うのか、何故何も出来ないはず『だった』と過去の形にしているのか。それは彼女がこれから置かれる新たな状況に起因する。話は西園寺や罪木と仲直りした後、そして二人が寝静まった後から話は始まる。蒼は二人と共に寝ずに起きていた。焦りから寝ることが出来なかった。



「ない。…どこにも、ない…!」
 ベッドの下もリビングもキッチンの隅から隅までも全て探しつくしたが、見つからない。突然初めからなかったかのように赤松の鞄は蒼の前から消えていた。赤松の大事なものであり表向きには盗難状態の、必ず他人には隠しておかなければならない赤松の鞄。帰った時には確かにあって自身のベッドの下に置いたはずのそれが、深夜を回った現在、なくなった。…まさか、失くしたのかどこかへ置いてきたのか。そんな疑念は彼女の持つ確かな記憶に勝って消える。

 片時も離さずに持っていた鞄を一瞬のタイミングで失くしてしまったのは想定外も想定外な出来事である。四方を再度確認するが変わった点はない。西園寺と罪木の周囲も静かに確認したが二人共目ぼしいものは持っていなかった。泣き疲れたのか若干赤い頬が見え、申し訳なさが胸を掠める。

「…そういえば、何で」

 想定外と言えば突然の西園寺の爆発も気になった。彼女は素直さと気丈さが入り混じったような性格をしているのでしばしば周囲を惑わすことがあるが、それでも今回のような荒れ様は異常だった。芯が強い西園寺は余程のことが無い限りこのように荒れはしない。寂しかったから、と罪木は理解していたが、たった何日か一緒に居ることが出来ないことの寂しさは西園寺にとってそんなにもストレスに感じることなのか。長年過ごしていて彼女のことを見ているのだから、図り間違えるはずはないのだが。妙な寒気が蒼を襲う。___寒気?

 はっと窓を見て息をのむ。ほんの僅かに、しかし注視してわかるぐらいに隙間をつくった窓から冷気が吹き込んでいた。誰が開けたのか。騒動の後三人は片時も離れず過ごしていて、その間窓を開けるなどという行為を行った者は一人もいない。その時には既に開いていたのだろうか。西園寺とのトラブルのせいでいつもより部屋に入る時間が遅れ、またそれにより気づくのが遅くなった。蒼は記憶力には自信がある。記憶を失った後から振り返るというダイジェストを頭の中で振り返っても彼女が鞄をどこかに置き忘れたり窓が出かけるとき開いていることはなかった。そして確信する。何者かに鞄が盗まれてしまったのだと。それはもっとも最悪の展開だった。



「…………」

 欠伸をかみ殺して授業に臨む。なるべく赤松が視界に入らないように、また彼女と会話することがないように自然に目をそらす。約束の日、つまり赤松に鞄を返さなければならない日は今日、それも放課後である。二人の落ち着き様を見るともう答えは出ているらしい。ひそひそ話をすることもなく平然と過ごす二人に頭を抱えたくなった。こちらが思いもよらぬトラブルに巻き込まれていると言えるわけもない。つまり、今現在合わせる顔がない訳であった。

『…別に蒼おねぇを疑ってたわけじゃないんだけどさ……そっちのクラス、何かトラブルが起きてるんでしょ?それで皆がピリピリしてるみたいだって聞いて…それで、蒼おねぇの態度がそっけなく見えてさ』

 西園寺が語るに、何故か赤松の鞄が盗難に遭ったことはまことしやかに騒がれていたのだった。噂の出所がどこからなのか全く分からない。周りに言いふらさず隠密に事を済ませようと決めたのは二人だった。無論蒼は言っておらず、赤松も言わないはず。それにメリットが考えられない。誰から聞いたのかと尋ねると西園寺は首をふった。通りすがりに聞いたことだから誰からかは分からないらしい。
「顔色悪いぞ?」うとうとしている彼女を心配して夢野を始めとした何人かが声をかけてくれた。それに笑って何でもないと返す。 しかし幸いなことに手がかりがいくつかあったせいで蒼は鞄を盗んだ容疑者を特定することが出来た。それと同時に、腹が立った。こちらは本気で状況を打開しようとやっているのに、それに横やりを入れてくるような輩に。蒼は長らく忘れていた怒りを思い出したような気がした。じ、と睨みつけると相手と目が合った。相手は驚いた素振りもなく一度瞬きすると、何事もなかったかのように視線を目の前の友人に戻す。しかし口元は僅かに弧が出来ていたのを見逃すほど蒼は甘くはなかったのだった。

「やっぱり君の仕業だね、王馬君」

 静かに告げた言葉は彼にとってどんな意味を成すのだろうか。休み時間、使われていない空き教室に無理やり呼び出された彼は若干不機嫌そうに眼を細め、心外だとばかりに肩をすくめた。

「いきなり何言ってんの?何の話なのさ」
「とぼけないで。赤松さんの鞄、持ってるでしょう」
「赤松ちゃん?鞄?…あ、もしかして赤松ちゃんが最近元気ないのって鞄失くしたからなの?へぇー、それは初耳だなぁ」

 ガタンと椅子に腰を下ろし、背もたれの方に体を向けた彼の声のなんと白々しいことか。ゴシップを見つけたように興味津々に蒼を眺め、無邪気な子供のような瞳で言葉を重ねる。

「それで話を聞くに、もしかして鞄が盗まれちゃってるの?それで蒼ちゃんの頭の中では俺がその犯人になっちゃってる訳だ!」
「…噂を聞いた。このクラスがピリピリしてトラブルに巻き込まれてるって噂。でも実際そんなものない。少なくとも、目に見えては。でもその話を聞いて不安になった子がいた。そのトラブルの大本が私にあるって話を耳にしたらしくて」
 西園寺は彼女の感情を押し付けた訳ではなく、蒼のことが本気で心配だったのだ。彼女のそっけなさ、一つ一つの言動がストレスを抱えるような含みを持っていたと西園寺は錯覚してしまったらしい。蒼を支えてあげられない自分に怒りを覚え、最終的に爆発させる形になってしまったらしい。

「__誰かに恨みを持たれる謂れはない。少なくとも私のクラスで私のことを噂にするほど悪く言う人なんて王馬君ぐらいだよ」
「へーぇ、随分自意識過剰じゃん。そんなに人気者なのかなぁ蒼ちゃんは?」
「…違う。人と深く関わっているわけではないから、話題に上るのが可笑しい話ってことだよ。…そのあとに友人が何を聞いたのか知ってる?」

 蒼は腹が立っていた。昔あった感情を思い出すぐらいに強い衝動を抱えて王馬と対面していた。西園寺が聞いた言葉は間接的に彼女を傷つけ、蒼自身にも被害が及んだ。しかし彼女が誰が言ったのか知らないがはっきり覚えていると言った台詞は蒼の疑念を確信に変えた。

「その噂が本当なら、蒼のやってることは全て空回りの自己満足のため。それを言ったのは君だよね?王馬君」

 ここまで言って変わることのないその表情は蒼にはいやに妖しく見えた。無邪気な子供のように、子供には似つかわしくない笑みで「にしし」と笑う。

ALICE+