5月D 探偵の帽子編

呼吸すら躊躇われるほど静まり返った教室。蒼は先程からずっと王馬小吉の言葉を待っていた。先刻まで見せていた歪んだ笑みは鳴りを潜め、王馬は冷めきった瞳を彼女に浴びせていた。…一言でも発すれば自分は殺されてしまうのだろうか、という気さえ起きる。
やがて最後の授業を知らせるチャイムが鳴り響くと、彼は僅かに目を細めてスピーカーを見、ため息をついた。

「流石に気づかれるよね。馬鹿な蒼ちゃんでも分かったか」

こちらが言い返す前に近くの机の中から見覚えのある物を取り出して見せる。間違いない。赤松の鞄だ。…彼はここに呼ばれることをあらかじめ予期していたのだろうか。無意識に彼を咎めるような目線を送っていたのか、相手はせせら笑いを見せる。
「おー、怖い怖い。何でも人を睨むものじゃないよ?」
「何で、こんなことを」

「何で?」
ここで王馬はにししと笑った。さも可笑しそうに蒼の問いの愚かさを指摘するように笑った。しかしつられて彼女も笑うことが出来ないのは、彼の声色が全くと言って良いほど楽しげではなかったからか。首を傾げて一息、息を吐くと共に言葉も伝う。

「嫌いな奴の邪魔をすることが理由になるなら、それが理由なんだろうね」
「…私の事?」
「それ以外誰がいるんだよ。自分が何時だって中心にいて愛されているとでも思ってんの?」

面と向かって嫌いだと言われるのは初めてな気がした。不思議と大した衝撃を受けることがなかったが、それでも「嫌い」という言葉が頭の中で木霊する。こうも平然と嫌いなのだと言える人間がいたのか、そしてそれが動機で人の物を盗む奴がいたのかと蒼は知る。

「にしても蒼ちゃんも悪い奴だよね。赤松ちゃんの鞄を盗んで知らん顔なんてさ!」
「それは、」
「嘘だよー!分かってるって。最原ちゃんに鞄を見つけさせて赤松ちゃんが大感謝!それを見た最原ちゃんが探偵としての自信を取り戻して前向きになれるようにする、って魂胆でしょ?」

「え、どうして知って」
「何でどうしてって、子供みたいに聞いていけばその内答えが帰ってくるなんて思ってるの?ま、どうであれ答えるわけないんだけど」

あれよあれよと並べ立てる言葉を拾い集めるだけでも大変で蒼は返す言葉を失う。計画を全て把握しているのはいくらなんでも可笑しい。彼は知りすぎていた。

「それで大団円、って終わらせたかったみたいだけど残念だったね?思わぬ邪魔が入って」
「…何処で知ったのかは知らないけど、そんな理由で…、いい。とにかく返して。君が持って良い物じゃない」
「…よく言うよ」
「確かに私が言えたことではないけど…赤松さんと立てた大事な計画だから。最原君を利用する形になっていることは知ってる。それでも、あともう少しだから」

最後に鞄が無事帰れば事件は解決する。赤松は報われる。それは最原にとってでも、二人にとってでもあった。一種の自己満足のようなものなのかもしれなかった。これで最原が自身を誇りに思う確証はなく、寧ろ低い。しかし蒼はどうしても何かしたかった。初めて無謀なことにこれほどまで打ち込んだ。赤松に対してはそれ以上に協力したいと感じた。その気持ちがどことなく果てしないものだと同時に思うのは何故なのだろう。蒼は王馬に向き直り微笑む。相手はわずかに目を見開いた。

「やってみないと何も始まらない。物事は考えるだけじゃ動かないんだよ。だから私は何度でもやってみたい。そう思うから」

だから返して。差し伸べた手の先に鞄が揺れる。目を向けると王馬はそれを眺め、大きくため息をついた。姿勢が前になり相手の顔がうかがえなくなる。これは許したということなのだろうか。そう解釈して身を乗り出したと同時、バタバタと足音が近づいてきてドアが開けられる。最原、次いで赤松は二人が向かい合っている状況を呑み込めないようで固まった。どうして、そう口を開いた時だった。

「ほんっと、だから嫌いなんだよ、アンタのこと」

 告げられた言葉を理解するよりも早くザリ、と砂をすりつぶしたような音とともに焦げ臭い臭いが立ち込める。それがライターで今しがた王馬が火をつけたのだと気づいた時には、その火は段違いに大きくなっていた。

「王馬君!!」

 最原が王馬に体当たりし、よろけた彼の手からそれをはたきおとす。一緒に火だるまとなった赤松の鞄が床に落ちた。一瞬の間に燃えたあたり、アルコールでも仕込んでいたのだろうか。呑気なことを考えて動けないでいる一方で、赤松は消火器を手にしてそれを打ち消した。真っ白い粉が沸き上がり、ゆっくりと辛うじて窓を開ける。振り返って、目を見開いた。

「あっは、あはははは!!!綺麗に燃えたねー!いやあ、面白かった!!」

 手を叩いて床に崩れ落ちて彼の声だけが響く。本当に、最高。最高の幕引きだ。王馬はこの状況を愉快だと言って笑った。愕然と王馬を見る赤松。信じられないと目を見開く最原。対して、それすらも一つのショーとして見物に徹した蒼。目の前のこれは、夢ではないのだろうか。必死に作り上げた劇が目の前でボロボロに消え果る光景が俄かに信じられなかった。

「…お、ぅま君__何を」
「どうしたの赤松ちゃん。何か大事な重いものでも入ってた?」
「……っ、」

 最原が王馬の胸ぐらを掴み上げる。本気で、下手したら人を殺さんばかりの目。初めて見る最原の激昂に赤松と蒼はたじろぐ。しかしそれすらも意に介していなかった相手は一息置くと相手の脛を蹴り上げ、怯んだところを思い切り突き飛ばした。地面に激突した彼に慌てて駆け寄る。痛みに顔をしかめつつ蒼の呼びかけに応じた最原は王馬を睨みつけた。

「…まさか君が盗んだとは思わなかったけど…最低なことをしてくれるよね」
「…え、」
「そうだけど?真っ先に俺を疑わないなんて探偵としてどうなの?それでも探偵なのかなー?」

 彼は一体何を言っているのだろう。驚きと怒りが混ざった感情の中で聞こえた言葉はそれらを一瞬掻き消すのに事足りた。赤松と目が合って確信する。間違いなく王馬は自分が盗んだのだと言った。どういうことかと問いたげな目線に返せる言葉は何もない。彼は飄々と言葉を紡ぐ。

「蒼ちゃんにも言ったけど、俺赤松ちゃんのこと嫌いなんだよねー!それでこうやって嫌がらせしたわけだけど、いやー本当に面白かったよ!放課後まで使ってバッタんばったん学校駆け回ってる君たちを見るのはさ」
「…何でこんなことが出来るんだ。赤松さんの大切な鞄だったんだよ?彼女が好きでずっと使って、なくなって毎日不安だって言ってた…それほど大切な鞄を」
「ち、がうよ最原君。盗んだのは___」
「うるさいなぁ!!」

 ガン、と椅子が音を立てて転げる。その先には蒼がいたが、王馬の目線は最原の方へ向いている。言外に「喋るな」と意味しているのは理由は知らずとも分かった。

「結局鞄が見つからなかったのはお前らの不手際なんだよ。特に赤松ちゃんは最原ちゃんをあてにしたっていうのに、君は何もできなかった」
「…違う、それは」
「やっぱり最原ちゃんはずっと未熟な探偵のままなんだよ。いっつも帽子被って外を向くのが怖いただの弱虫。探偵なんか程遠いね」
「っ、帽子のことは関係ないだろ!」
「………煩わしい。俺はもう行くから」

 そのまま歩いていく王馬を最原が声で制すも止まらない。赤松も声をかけようとしたが思い切り睨まれて固まっていた。身に覚えがないのに嫌われたと言われるのはやはり彼らには辛い出来事のようだった。蒼は最原に肩を貸して立ち上がらせつつ王馬を見る。最早先ほど感じた感情を通り越して今はただ、彼のことが本当に不思議でならなかった。視線を感じたのか王馬が立ち止まる。「そうそう」後ろを振り返ることなく声が部屋に届く。

「これでわかったでしょ。誰かを助けようとしたって結局出来ることなんて何もないんだから。分かったらそんな馬鹿な考え捨ててとっとと俺みたいに利口に生きるべきだね。…そうじゃないと」

「殺されるよ?この俺に」

 誰に向けて言った言葉なのか。それだけは彼が去る前に理解できた。
 

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