4月A

「蒼おねぇ!!いつまで寝てるのさ!」
「はうぅ…大丈夫ですかぁ?もしかして体が優れないのでは…」
「あー、大丈夫大丈夫。普通に眠いだけだよ。…おはよ、西園寺ちゃんに罪木ちゃん」

 温かい笑顔が最高の目覚ましとなって柔らかく耳に降り注ぐ。蒼はすぐに眠気を覚まして二人に頷いた。よかった、と心底安心したような顔をしているのは西園寺と共にルームメイトである罪木蜜柑。『超高校級の保健委員』である彼女はある時蒼が路上で思いっきり転んだ時に出くわして治療してくれた恩人だった。それ以来西園寺と一緒によく仲良くつるんでいる。

「学校に慣れてるからって遅刻しないでよね!怒られるのは私たち何だから」
「あーごめん。わざわざ違うクラスにまで押しかけられちゃうのは申し訳ないね」
「それにしても蒼さんだけ違うクラスだなんて本当に残念ですよぉ」
「違うって言っても隣なんだけどね。確かに私も二人と同じになりたかったよ」

 入学式の日に貼り出されたクラス名簿には、西園寺と罪木の名が書いてある紙に肝心の蒼の名はなかった。彼女たちは2組で、彼女は3組。別れてしまったのは本当に残念だ、と無意識のうちに肩が落ちる。西園寺も同感らしく、不満そうに頬を膨らませて上に抗議してやるとかなんとか言って罪木がそれに慌てている状態。朝からやや混とんとしていた一同は、同時に時計で時刻を確認して我に返った。

「やばっ!ゆっくりしすぎて時間があと5分しかないじゃん!」
「はやく行かないとまずいですよぉ!」
「すぐに出かけよう!二人とも、また放課後に!」
 凄まじい速さで身支度を終えた3人は寮を飛び出して一目散に走った。


「どうなることかと思ったよ。ギリギリセーフで良かった…」
「朝は危なかったね。もし遅れてたらアウトだったかも」
 ふうと一息つく蒼に天真爛漫に笑う少女。超高校級のピアニストである赤松楓は、初対面でも臆することなく気軽に彼女に話しかけてくる。言動が普通な西園寺だ、と第一印象を抱きながら蒼はすぐ彼女と打ち解けていた。
 新しいクラスのメンバーは一人一人が個性の塊だった。大体の人がわが道を行くという態度であり、また全員が超高校級であるという誇りを肩に背負っているように見受けられる。それでも彼らに必要以上に関わろうとはせず結局名前を覚えたのは赤松含め複数人しかいないというのは、蒼自身の気質でもありそんな天才たちに気後れしていたからでもある。授業の内容はどうかというとこの教室の全員が勉学に秀でているわけではなかったため、普通の高校と同じ範囲を進めているらしく早々に遅れることはなかった。プラス、授業は午前中だけなので、午後は才能を磨くなり遊ぶなり好きなことをして良いことになっている。

「蒼さんはこの後どうするの?良かったらどこか行かない?」
「んー、ごめん。実は早くに寮に戻らなくちゃいけないんだ。明日は空いてる?予定をあけていくよ」
「オッケー!楽しみにしてるよ」

 そのまま赤松と別れて蒼は学校を出る。放課後には帰る、と約束はしたがさして厳しい制約ではなく本当のところは暗くなるまでに帰ればよいのだが、この日は何だか一人でぶらぶら歩きまわりたい気分だった。かといってどこかへ立ち寄るのも赤松に悪い気がしたので、ゆっくり歩いてあえて遅めに寮に着くことに決める。

 外は運動活発な生徒が動き回ってにぎやかだった。ボールを打つ音叩く音があちこちから聞こえてきて、聞き分けることはできないが初日から学生生活を謳歌しているのだなと感想を持つ。ここの生徒は皆何かしらの天才なので、蒼自身そういった人の話を聞いたり才能を見たりするのが好きだった。お世辞ではなくその実力が素直に関心出来るものだったからだ。学校を見て回るのも悪くないかも、と今更ながらに思う。そうして何事もなく歩いて行って帰路につく、と思っていたのだが。

「動くな」

 うなじに冷たいものが当たって首がひきつる。何を言われているのか一瞬分からずに聞き返そうと首を反射的に回そうとして、同じことが告げられる。…ナイフ?冷たい異物の正体に勘づくと途端に体がこわばった。声を出すことが出来ずに、そのまま互いに動かない。得体のしれない人物の笑い声がぞわりと耳を刺激する。ところが、出てきた言葉は思いがけないものだった。

「だーれだ?」
「……え?」
「だから、誰だと思う?」
「……え、えぁ……誰、ですか?」

 どう答えればよいのか分からずに思案する。いきなり刃物を突き付けられて正体を言えと言われても適切な答えが浮かばない。そもそも適切な判断が出来ないのだ。相手は不満だったのか大げさなため息を漏らし、同時にうなじにあたっていた感触が消える。慌てて振り返ると、見覚えのない男子がスプーンを持ってこちらを見つめていた。

「なーんだ。覚えてないんだ。…つまんないの」
「スプーン……えっと、急に何?そもそもどちら様?」
「うっはーひっどいなぁ。同じクラスにいた奴の顔も覚えてないなんて」

 同じクラスに?そう言われてみれば確かにいたかもしれないと蒼は記憶をひねり出す。席の後ろで男子同士が騒いでいたような覚えがあるが、もしかしたらこんな声だったかも。それでも名前は覚えてはおらず、もう一度素性を確認するとまたもや失望したような顔がのぞく。心外である。

「人に名前を聞くときは自分から名乗るのがセオリーじゃないの?蒼ちゃんって常識ないよね!」
「あ、それはごめん……って、どうして私の名前を?」
「そりゃそうだよ。何たって俺は世界中の人の名前と戸籍を知っているからね!」
「…え、本当に?」
「嘘だよ!そんな莫大な人数覚えてるわけないじゃん。蒼ちゃんって騙されやすいなぁ」

 いきなり初対面の人に騙されやすいと言われても相手のことなんて知らないんだけど、と心の中で愚痴る。こうして会ってすぐ判明したのは彼がとんでもないいたずらっ子であるということと嘘吐きだということ。「そんなにころっと騙されると」と彼は言葉を切る。瞬間、何かアクションを起こしてこちらに向かってきて咄嗟に目をつむる。一瞬の間のあと、額にまたあの冷たい感触が感じられた。
 今度こそふざけるな、と一喝してやろうかと決心して目をあけた蒼は息をのんだ。殺気か、それに近いものを至近距離から感じた。彼が妖しげに目を細めてこちらを見てきた…というより、睨んでいたのだ。

「…殺されるよ?この俺に」

 どれくらい長いことそうしていただろうか。はっと正気を取り戻した時には彼の姿はもうなかった。夢だったと終わらせられるほど都合の良い頭は持っていない。何よりつい先ほどあてられた殺気とうなじや額に残る感覚が一生覚えていろと言わんばかりのものだった。

「……何なの」

 本当に訳が分からない。しかしそれについて恐怖を覚えなかったということも一層蒼は不気味なことのように覚えた。あれは自分には近づくなという暗示なのか、彼は周りの人間全員にそんなことをやっているのか。少なくとも何の接点もない自分だけに彼がそういったことをするとは思えなかった。
 明日学校へ向かえばわかるだろうと考えを一旦打ち切って、底知れぬ不安を感じながらも蒼は後ろを気にしつつ寮に走っていった。

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