4月C 探偵の帽子編

「……寝た気分がしない」
 ガチャリとゆっくりと扉があけられ、覚束ない足取りで一人の人物が現れる。蒼は未だ寝ている二人に『先に学校へ行っている』という旨の書き置きを残して早めに出かけることに決めた。
何か問題があったわけではない。何故か昨日は寝つきが異常に悪く、想像を絶する悪夢を見たような気がする。ただそれだけのことだ。何を見たのかは全く思い出すことが出来なかったのだが、飛び起きるように目が覚めた時に胸に残る嫌な感覚と全身を覆う汗が察しをつかせていた。嫌な体験も記憶もないはずなのに、と蒼はこの体験を不思議に思う。変わった出来事と言えば数日前に赤松と最原と共に外食に出かけただけだ。あの時は問題なく楽しく終わって、最後の方に赤松がいつか二人にピアノを聞かせてくれると約束してくれたのだ。その時の最原の声が耳の中に反響する。『それは楽しみだ』と___
 
「___っ!!」
思わず頭を抑える。一瞬殴られたと錯覚する、それぐらいの痛みが蒼を襲った。バチバチと火花を出してショートするように頭が一瞬で熱を帯びる感覚があった。ぐらりと傾く地面。ぼやける視界。目の前がひっくり返ったように大きく揺れる。自分が倒れたのだと気づいたのは彼女の体が違う者の手によって支えられてからだった。
「蒼さん!?だ、大丈夫!?」
「あ…最原君。おはよう」

 状況を把握していないわけではないのに妙に落ち着いた声が漏れる。最原の慌てた顔がどこか他人事のようにみえて可笑しい感情さえ沸いた。「おはようじゃなくて!!」と語気を強める彼に思わず目を丸くする。意外と迫力のある声を出せるのだと知った。最原自身も驚いたのだろう、直後はっとして申し訳なさそうに目線を彷徨わせる。

「ご、ごめん。…でも本当に大丈夫?」
「こっちもごめんね。…平気、だと思う。ただの立ち眩みかな」
「無理せずに休んだほうがいいよ。この近くにベンチがあるから」
 そのまま促されるようにベンチに腰掛ける。気づけば異様な頭痛も眩暈も収まっていて本当に大丈夫な状態なのだけど、そう思いつつも蒼は最原が来てくれたことに感謝する。彼女の正面に立つ最原は話しづらいと感じたのだろう、遠慮しつつ蒼の座る場所から少しだけ離れて自身の身をつかせた。

「いつもこの時間に出てるの?早起きなんだね」
「ちょっと散歩してて。…それに、それを言うなら蒼さんも。あまりそういうイメージはなかったんだけど…」
「あはは、いつも遅刻しちゃうからね」
 これ以上心配させるわけにはいかないので今日は早くに起きたのだと言って誤魔化す。無理に生活のペースをくずすといけない、と忠告されることになった。ストレートの髪が朝日を抱いてほのかに煌く。冬至をとうに過ぎた朝はもう早くから日が空を上っていた。寝起きの桜が控えめに花びらを散らしており、もうそろそろ全て散ってしまうだろう。

「最原君って誰かと一緒に住んでたりする?」
「一応叔父がいるけど…僕の家はここからそう遠くはないからルームシェアとかはしてないよ」
「あ、そうなんだ」
「蒼さんは?…えーと、家がないんだよね」
「私は知り合いの友達と寮生活してるんだ。ちょうど顔見知りで」
 蒼の生い立ちは一部だけ最原も把握していた。それだけでも十分特殊なのだが、特に超高校級の才能がわからないのだと告げた時は赤松と揃って驚きの声を上げた。超高校級の才能が存在してこそのこの学園の生徒なのだ。そのなかに、自分の素性をまったく知らない人がいるとは考えもしなかった事実である。それ故に、空っぽの記憶に知識を注ぎ込む熱意も凄まじいのだが。ここで蒼は彼の才能を思い出す。

「超高校級の探偵、なんだよね。やっぱりすごい才能だよね」
「…そんなことないよ」
「そうかな?真実を自分の手で見つけられて、それが人助けにもつながるって本当に凄いことだと__あ、ごめん。変なこと言っちゃったかな」
 相手の落ち込んだ顔を見て慌てて口をつぐむ。その態度から明らかに相手は自分の才能に快く思っていないのだと気づいた。ゆるく否定するように左右に首を振るも最原は防止のつばを深く被りなおして表情を隠す。そんな行動に彼自身も察しているのだろう、申し訳なさそうに蒼から顔をそらしていた。
かける声も見つからずそのまま沈黙が流れる。雲が悠々と二人の上を泳いで行った。淡い白の蓋は外側から中のよいところ悪いところを構わず隠すように包み込む。時間だけがただ無情に過ぎていく。
 
 ずっと話さない状態なのも気まずさを感じ始め、そろそろ彼から離れた方がよいかと身を離そうとしたところだった。「あのさ」と遠慮がちな声が響いて蒼は動き出そうとした体を止めた。ジリ、と靴が地面をすべる音が呼応する。

「…君の才能を聞いてもいい?この前話さなかったよね」
「あ…私、才能わからないんだ」
「分からない?」
「うん。『超高校級の???』が、私の才能だから」

やはり、超高校級の名がついてこそのこの学園の生徒。その才能が判別できないというのは異端中の異端なのだろうか。蒼は想像通りの相手の表情に思わず苦笑する。次になぜ今自分の才能を問うたのだろうと疑問に思うことになる。相手の才能について色々と聞きたかった彼女にとって自分の話をすることになったのは思ってもない機会だった。

「…だから、才能のない私にとって秀でたものを持つ君たちは少し羨ましい…かも」
「……」
「気分を悪くさせたらごめん。才能で人を助けられる人のこと、私にはよくわからなくて。…だけどそれは他の人に出来ないことだから、最原君はもっと胸を張っていいと思うんだ。…それは探偵にとって真実ではないのかな」

 恐らく言っていることは間違っていることなのだろう。蒼は驚いた表情を浮かべる最原を見て申し訳なく思う。思いつめていたようだったから自分の気持ちを伝えただけであったが、やはり持っている者と持たない者の考え方は違うのか。才能を持つ人との交流は多くなかったから、一辺倒な言葉を吐いても伝わらない人には伝わらないようだ。
 気づけば時間は登校時間に近くなっていた。いつまでもぐずぐずしていれば寮の二人と鉢合わせしてしまう。何れお叱りを受けるだろうがそれは今だけは避けたかった。蒼は立ち上がって最原を見やる。もう先ほどの動揺は見られないが、改めて目深に帽子を被るしぐさがこれ以上の会話の拒否を伝えていた。

「…ごめん。変な話をさせてしまって」
「…私も、最原君のことよく知らないのに勝手な口聞いちゃってごめん」
「ううん、逆に感謝してるよ。蒼さんに言われるまでそんなこと考えたことはなかった。誇り、か。…確かに探偵として、僕として欠けていて必要なものなのかもしれない」
「…最原君?」
「あのさ、頼みがあるんだけど…良ければ聞いてくれないかな…」
 すぐに出された頼みに断る理由はなかった。頷く蒼に最原は安心したようにかすかに笑う。先ほどの陰鬱な空気を些か払拭したのだろうか。話はまたとばかりに立ち上がって共に登校を促した。続けて後を追うように立ち上がろうと上を見て彼越しに空が見える。真っ白なカバーに所々光が差し込んでいた。

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