4月D 探偵の帽子編

「…わっ、ごめんなさい」
「おっと、悪いな!」

 教室から移動しようと扉を開けてすぐ、外から弾丸のように飛び込む存在が見えるとともに体が傾く。どうやら自分はぶつかったようだと手にしていたプリントがバラバラと床に散る様を見て他人事のように感じていた。そのままなのも気にせずに蒼は衝突した相手を見る。…確か、超高校級の宇宙飛行士である百田海斗その人ではなかったか。自分からは話しかけたことはなかったが授業中やら休み時間やらに大声で何か言っている姿や特徴的なはねた髪型が彼女には珍しく印象に残っていた。

「ケガはないか?えーと…蒼、だったか」
「合ってるよ。百田君もケガしていないようでよかった」

 いつも授業が終わり次第速攻で出ていく彼が急いで帰ってくるとは珍しい。何か忘れものだろうか。それじゃあな、とそれ以上言葉を交わすことなく百田は中へ入っていく。その姿は一人の女子生徒のところへと向かっていった。髪に届きそうな長い黒髪に赤いシュシュが目立つ。あまりじろじろ見るのは失礼だと感じ、蒼はそれ以上詮索しなかった。…まずは彼女自身が持つ予定を消化することが優先だろう。



 彼はいつもと変わらない風貌で屋上に佇んでいた。まわりには人はいない。階段を上がり続けてたどり着いた蒼の目に止まったのは真っ黒なその人の姿である。声をかけるが早いか顔がこちらに向かう。

「あ…蒼さん。来てくれてありがとう」
「ううん。…もしかしてずっと待ってた?ごめん、もっと早くに行けばよかったかも」
「いや、僕も言うことをまとめたかったからいいんだ」

 わざわざまとめるくらいなのだから、やはりこれから彼が話すことは彼にとって重大な意味を持つのだろう。放課後に屋上で、と約束された朝から固めていた覚悟を改めて引き締める。表情を固めたことが見えたのか、ふっとうっすら笑みを浮かべて最原は彼女にリラックスしてほしいと頼む。

「屋上に呼んだのは、人が来ないこともあるけど二人きりで話したかっただけだから…」

 念を押して彼が語ったのは、やはりさして生易しいものではなかった。彼の生い立ち。彼の苦悩。ぽつぽつと紡がれる言葉はやがてお天気雨のように降り注ぐ。彼の叔父、その助手として浮気調査の仕事の毎日。そこに偶然舞い降りた殺人事件の依頼。見事な解決。注目される最原。周囲からの賞賛___

『お前なんていなければよかったのに』
 ガラガラと音を立てて崩れ落ちる自信。警察に連れていかれる際の犯人。その目が彼を覗く。あの悔しそうな目、人を殺して己を振り返らない、逮捕されたことに憤りを覚える目。恨み、憎しみ、全てが彼の元に降り注ぐ。お天気雨なんかではない。それは呪いの雨だった。死ね、消えろ、探偵なんて___幾つもの視線が自分に刺さる。刺さって、貫いて、尚もずっと、ずっと____

「……蒼さん?」
「……、何でもないよ。それで最原君は自分が探偵だ、っていう自信がなくなってまわりの視線が…怖くなった?」

 気づけば彼の話に引き込まれていた自分に気づく。彼の話術がそうさせたのだろうか、今朝感じた眩暈がわずかながらにぶり返すのを感じつつ蒼はそっと彼に問う。わずかに見開かれた最原の瞳は、やがてゆっくり細められることとなる。

「そう、だね。事実探偵だって名乗る資格はないと思う。僕が真実を暴いたせいでその人は捕まってしまったし、何よりそのことを…喜ぶことが出来ないから」
 真実を暴くことが探偵の本分。それに目を背ける自分は探偵ですらない人間。彼はそう言いたいのだろう。その臆病心故から最原はまわりの期待すら恐れた。好機の視線につきまとう憎しみや恐怖から逃げるために、帽子という目隠しを使ってその場をしのいだ。彼の目すら周囲から見えなくしてその心を知られないように努めたのだ。

「…そっか、そんなことが__」
「…突然呼び出してこんな話をしてしまうことになって、ごめん。…こう言うのも難なんだけど、蒼さんには言わないとって思ったんだ」
「…私に?」
「…初めてだったんだ。探偵としての僕を僕以上に誇りだって感じてくれる人は。…それに蒼さんに話しにくいことを話させてしまったから、代わりに僕の話も聞いてほしかった」

 それは今朝の彼女の過去についての話だろうか。自分の話は取り立てて隠す理由も意味もないからそのような配慮は無用なのに、と蒼は首をかしげる。しかし彼女の言動は最原の心のどこかに響いたようだった。だからこその彼のこの行動。これは蒼にとって初めての経験だった。

「……最原君の考えを、否定するつもりはないけれど」
「…うん」
「私は君が誇りを取り戻してくれたら良いなって思ってるよ。君がやったことは私からすれば間違いなく『正しい行為』だから、それで最原君が気に病んでいるのは…何だか嫌かも」

 そうとまでしか言うことが出来ない。誰かにその才能についての相談を持ち掛けられたことがなかった蒼にとって最原への助言は到底考えつくものではなかった。才能というものは時にはその持ち主にも牙を向くということを知らなかった蒼にとって最原の考えは思いもよらないものだった。ぱっとしない表情で相槌をうつ彼の助けになれないことを、心の底から残念に思う。

「…きっと、考えて見せるから」
「……え?」
「最原君がわざわざ相談まで持ち掛けてきたことだから…私も私なりに考えて答えを持ってくるよ。今は思いつかないけど、きっと最原君が前を向けるようになる道、考えて見せるから」

 無理やりにでも協力をするという彼女の宣言に困ったように視線を彷徨わせた彼は、やがて諦めたように「ありがとう」と告げた。その表情が何に対する諦めなのかついぞ蒼は知ることはなかった。



 屋上を後にして、数時間。蒼はどうしようかと気をもめて正面を見つめていた。このあとは特に予定はないのだが早く帰った方が良い。それなのにこうも邪魔が入るのは何故なのか。
「…どうして通してくれないのかな、王馬君」
「逆に俺の行く手を阻んでいるとは考えないのかなぁ?ちょっと図々しいんじゃない?」

 してやったりの顔で彼女の前に陣取る王馬。言葉の割には彼女が動く方向へ自身も動く。その背後には彼らの教室があった。忘れ物をして取りに帰ったのが間違いだったのだろうか、と面倒くささにため息をつく。正直先日のこともあって蒼は王馬に良い印象を抱いてはいなかった。またいつ寝首をかかれるか分からない。
 立ち去らせる言葉に迷っている彼女に王馬は更に底知れぬ笑みを携えて近寄る。

「相談までされちゃってモテモテだねー!このままいっそ付き合っちゃえば?」
「…何、盗み聞き?趣味が悪いよ」
「屋上で寝ていたところに勝手に来たのはそっちなんだし、文句ないよね?…ま、嘘だけど。面白い顔で階段を上るもんだから気になって追いかけただけだよ。思わぬ修羅場を見ちゃって悪いね!」

 一々突っかかってきて彼は何がしたいのだろうか。これがただの遊びだとすれば酷い性格だ。最原自身も聞かれたくなかった話をよもや彼に聞かれることになろうとは、と蒼は王馬を睨みつける。それを反抗ととったのか王馬は非難する言葉を止めずに流し続ける。
「人の悩みにいちいち乗ってやる必要なんてどこにあるの?どうせ解決もできないくせに。あんたはただ自己満足のために話を聞いているだけにすぎないよ」
「…最原君は本当に悩んでいた。誰かに話して少しでも良くなれば、それでいいだけ。私の利益で動いた話じゃない」
「だから、それを自己満足って言うんだよ。自分のことも知らないくせに他人知りたさに首突っ込んで何になんの?…そのうちアンタ自身が呑まれるのは目に見えてるのにさ」
「…っ、」
 一瞬の、暗転。しかし今回ばかりは彼によるものではなかった。気づけば蒼は彼の胸ぐらを掴みそのまま体を壁に押し付けて睨みつける。…どうしてかは分からない。言葉の節々に漏れる悪意に怒りを覚えたとしてもこんな行動は彼女自身も予想だにしていなかった。ハッとしてすぐに彼から離れる。体が小刻みに震えているのとため息をつく音が聞こえたのは同時だった。


「ご、ごめん。そこまでやるつもりじゃ…」
「ほら、やっぱり図星なんじゃん。そうなるくらいなら初めから認めればよいのにさ」

 認めるって何を。図星って何が。蒼は混乱した頭を抑える。自分は最原の話を聞いた。何とかしなければと思った。それだけではない。具体的な策を考えている最中だ。それに穴があるだろうか?人を利用しようとしているようなのか、実際にそうなのだろうか。王馬はまるで彼女のことを彼女よりも知っているようだった。息が流れる音が近づく。また何かされるのだろうか。しかし彼から離れようという意思も力もそのとき蒼は持ち合わせていなかった。…目を閉じる。耳をふさぐ。閉じた音から、声が漏れる。


『___うそだよ』


 気づけば私は見慣れたベッドの上で佇んでいた。

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