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蝮は夜明けの夢を視るか

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地上は愚かな程騒がしい。鼓膜を破りそうな程の音に、黒岩は端正な顔を僅かに歪める。

『フィッツジェラルドの脚本に入ってしまったね…』

黒岩は、組合の船を降りて横浜の街に帰ってきていた。人間達が発する音から切り離された海での静かな時間から、突如戦禍の中にある街に降り立てば当然ながら大きな差異が有る。涙香はゆるゆると首を振って、その異能力ゆえに耳から大量に入ってくる情報を遣り過ごそうとした。

『扨、』

ともかく、と。黒岩は先ず探偵社の内部を探ることに決める。一番近くにあった木の影に腰掛けて、神経を研ぎ澄ませた。

―――異能力、【伊呂波歌】


「やはり寮にも賢治君はいません」
「…逆らう探偵社も用済みのマフィアも凡て消す、か」

聞こえてきたのは谷崎と太宰の声だった。どちらも負の感情の込められた音。涙香は瞬時に異能の発動を解く。この二つの台詞は、今の状況を理解することに於いて充分すぎる意味を持っていたからだ。

『僕の過失が響いてる証拠だ……此れは酷い』

小さく、落胆したように呟く。ポートマフィアの方にも異能力を発動し、探りを入れたものの、余り良い形で進んでいない様子が伺えた。正にそう。雲行きが怪しかった。
此れでは、組合が割り込んで来たが為に探偵社も、ポートマフィアも、…僅かに違えれば張本人である組合ですら、消し炭と化してしまうかもしれない。黒岩自身がどう動くかに因って、悪い方に噛み合い掛けている歯車の角度が僅かでも変わるかも知れない。黒岩は一つ息を吐いた。ゆっくりと目を閉じ、頭を木の幹に預けて髪を海風に遊ばせながら思考する。――やはりこの選択肢しか与えられなかったか、と。

限りある選択肢の中で、何れだけ最善の物を選び取れるか、それこそが最重要事項なのだ。更に言えば、己の過失は己で巻き返さねばならない。つまりは、そう言う事だ。


『まあ…先の僕の回答は赤点物だけれど』

そもそも、黒岩は数日前から弾き出していた解答の答え合わせをしていたに過ぎなかったのである。華奢な指先で艶やかな黒髪を耳に掛けると、…猶予期間は此処までだ。黒岩は胸中で呟いた。

『―――恐らく、此れは及第点と謂えるかな』

異能力を有するからこそ聞こえる音がスピードを上げて近付いてくる。黒岩は口の端をつり上げた。その音こそ、この美しい男が己の過失を屠る為に選んだ最善策の音だったからだ。
黒岩が待ち侘びていたその"何らか"の音が、凡人であっても感知できる程の距離まで近付いた。
キキッ、と車の停車音が小さく鳴る。


―――待ち人来たれり。



『意外と時間が掛かったね、』

ジャリ、靴底が小石を踏む音。木陰に座り込んだ黒岩の目の前に、影が射す。

『安吾』

其の影の主は、ピシリとスーツに身を包んだ天下の公務員様…異能特務課の坂口安吾であった。

「涙香君、僕も暇では無いんですが」
『待たせた側の台詞とは到底思えないね』
「はぁ……、早く行きますよ」

普段より一層、難しい顔をした坂口が、微笑みすら見せている黒岩の腕を引き木陰から連れ出す。そして黒塗りの車の助手席へ詰め込んでから、自分は運転席に戻っていった。

『そんな顔をして、どうしたの安吾』

黒岩が嫌味な程爽やかに尋ねれば、坂口は眉間の皺を更に深くして大きな溜息を吐いた。

「貴方も大概、意地が悪いですね」
『何処が?此れは君からの指摘事項を踏まえた流れだよ』
「だからこそです。更に言えば、貴方が出した答えだからこそ何かあるに違いない、そう考えるのは当然でしょう」

坂口はそう言うと、トレードマークと言える丸眼鏡を神経質な指でくい、押し上げる。

『そう?僕は信用されて無いってことかな』
「貴方の頭脳と、その異能力から来る情報を信頼してるからこそ判ることです」
『へえ。そうなの?熱烈な告白を有り難う。嬉しいよ』

何処までも惚けたような物言いの涙香に対して、もう付いていけない、とでも言いたげな坂口は再度溜め息を漏らす。

「全く持って、不愉快ですよ」
『君は僕に其の言葉を良く謂うよね』
「ええ。腹の底からそう思って居ますから」
『ふふ。僕は安吾のそう言う処にとても好感を持ってるよ』

助手席から首を傾げて坂口を見る涙香は、無邪気、と形容するのが一番合うだろう笑みを浮かべている。
坂口は涙香のその表情が持つ、驚くべき力を身を持って知っているが為に、車内密室で直視しないよう尽力しつつ、やはり何度目かになる溜め息を吐くのだった。

「はあ……疲れます、」
『安全運転を宜しくね。安吾』
「ええ…はい。仰せのままに」

不機嫌を隠しもせず言って、坂口はウィンカーを出し、サイドブレーキに手を添えた。



事の顛末はこうだ。組合の船に揺られていた数日前の涙香は、既に己の過失が招く事態を理解していた。その為の対応策として事前に坂口へと連絡を入れていたのだ。横浜に到着する日付と大凡の時間を添えて――特務課に協力する――の意思を。



坂口は車を操りながら、口を開く。

「妥当と正解は違うと、僕はそう言いましたよね。」
『ああ。そうだね。此れは、僕の計算式が叩き出した、"今"の"正解"だよ』
「特務課に飼われる事の意味を、涙香君、貴方は理解していません」

何処か悔しそうな色を瞳に乗せた坂口に黒岩は、真面目すぎるよ、と零してから楽しそうに言うのだった。

『僕は飼われる何て一言も言っていないよ。使わせてあげるだけさ。』
「涙香君…」
『だって君が居るんだ。信頼してるよ、安吾』

信頼。その言葉に何れだけの意味が含まれている事だろうか。坂口はこの先を考えて、頭痛すら覚えるのを感じた。


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