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久しぶりにたっぷりと惰眠を貪った。

すっきりと目覚めるどころか、意識が浮上しても尚ぼうっと霞がかったままの頭は何かを考えることを放棄しているようで、ぎしりと使い古したパイプベッドの上を転がった。
チクタクと秒針の刻む音だけが響いているこの部屋には、私一人がいるだけで他に人の気配はない。それもその筈、この部屋の住人は私以外いないのだから。
一人用の部屋に、一人で眠るには十分過ぎるベッド。一人で使うにはちょうどいい数の食器類に、一人分のスリッパ。
生活に必要なものはなんだって揃ってる。一人で暮らしていくには何不自由ないくらいのものが、なんだって。

「ん…いま、なんじ…」

のろのろと力の入らない手が何往復か同じ所を彷徨った後に、放り出されたスマートフォンへと辿りついた。明るく照らされないように設定された液晶が、弱い光を放っていた。
時刻は13:00を少し過ぎたところ。随分と遅い起床になってしまったものの、今日は時間の許す限り眠ると決めてあったので一ミリの問題もない。
それに今から準備をすれば、約束の時間には十分間に合うだろう。
布団から抜け出すまでにまた少し時間をかけつつ、やっとのことで体を起き上がらせることができた私は、まず一番に洗面台へと重い足を動かした。
ぱしゃりとゆるくかけた冷たい水が徐々に頭を覚醒へと促してくれる。
寝ぼけていた脳が正常に働きだして、半分夢の中にいたままだった意識が緩やかに現実へと引き戻された気分だった。

夢を、見ていた気がする。
ずっと会いたいと思いながらも会うことができていない彼の夢。
ぼやけて顔は殆ど見えないけれど、私の肩をがっちりと掴んだ力の強さや、凛と通る声だけは今でもはっきりと憶えている。

完全に覚醒した頭の中で浮かんだ情景は、できれば思い出したくもない場面の中で唯一の光の記憶だった。
久しぶりに夢の中に現れてくれた彼の姿を必死に思い浮かべようとしたけれどやっぱり完全に顔を思い出すことはできなくて、早々に諦めてしまう。
思考を止めてぼうっと目の前の光景へと意識を移すと、視線の先には鏡の中に寝癖のついた、ノーメイクのだらしない姿が映しだされていた。反射のように寝癖にそっと櫛を通したなら、お気に入りの化粧水を肌に馴染ませていく。

さあ、遅めの朝食を食べに行こう。





「あれっ…名前さん?お久しぶりです!」

着慣れたルームウェアを脱いで身支度を整えた後、すっかりご無沙汰していた道を軽やかに歩いていたらこれまた少しだけ懐かしく感じる声の主に呼び止められた。
思わず立ち止まって俯き気味だった顔を上げると、小学生程の男の子の手を引いて此方へと歩いてくる見知った女の子の姿に、自然と頬が綻ぶ。

「蘭ちゃん、久しぶりだね」
「本当に、最近全然見掛けないからどうしてるんだろうって、この前園子と話してたんですよ」
「そうだったの?それは、気にかけてくれてありがとう」

ぱあっと表情を明るくさせて近づいてきてくれる年下の可愛い女の子に、此方の表情が和らぐのは当然のことだった。蘭ちゃんに引っ張られるがままにやってきた彼にもまた、腰を屈めて徐に声を掛ける。

「コナンくんも、久しぶり。元気だった?」
「うん!こんにちは、名前さん!」

屈託なく笑っているように見えて時々何処となく鋭さを発揮するこの小さな男の子とも久しぶりの再会だった。挨拶のついでとばかりに頭を撫でたら少し微妙な顔をされた気がしたけれど、彼のそういった表情は何度か見たことがあったので特に気にすることもなく屈めていた腰をあげる。

「今からポアロに行くんですか?」
「うん。梓さんからいい加減きて〜って連絡が入って」
「あはは、梓さん随分寂しがってましたもん」
「ちょうど仕事が繁忙期に入ってて…今日は久しぶりに寝たいだけぐっすり寝てきたよ」
「それは良かったです!私とコナンくんも寄ろうと思ってたところですし、良ければ一緒に行きませんか?」
「もちろん」

何処かへ出掛けていた帰りなのだろう。彼女達が住む毛利探偵事務所は目的の喫茶店「ポアロ」のちょうど真上にあるのだから、家に帰るついでにお茶でもして帰ろうということなのか。
冒頭の会話にもあるように彼女達との再会は久々だったので、ぽつぽつと互いの近況報告を交えて軽いやり取りをした。その間も足は目的の場所へと黙々と歩みを進めている。

「名前さんが来られなかった間に新しいバイトさんが入ったんですよ」
「あっ、それって毛利先生に弟子入りしたイケメンさん?」
「やっぱり、梓さんから聞いてたんですね!そうなんですよ、お父さん最初は渋ってたのにすっかり調子に乗っちゃって」
「イケメン探偵アルバイターか…これだけで聞くと物凄いパワーワードだよね」

会えない間も懇意にしてくれるポアロの店員梓さんからもらっていた情報は、仕事疲れでうな垂れていた私相手でも興味を引くには十分過ぎるものだった。
それは一度拝んでみたいと返したら「だったらいい加減きてよ!」という言葉が返ってきて、今日この日に至るというわけだ。

「梓さんも美人だし、晴れて美男美女カップルの誕生ですか?って茶化したら怒られちゃった」
「ふふ、その光景目に浮かんできます!」
「会ったらいらないこと言わないように気をつけなくちゃ」

私と蘭ちゃんの会話に呆れたような顔をしているコナンくんの表情に見ないふりをしつつも、わちゃわちゃと話している間にあっという間に目的地ポアロの扉の前へとたどり着いた。コナンくんの手を握り続けている蘭ちゃんよりも前に出てゆっくりとドアを開くと、チリンチリン、と耳なじみのいい音が鼓膜を震わせた。

「いらっしゃいま……名前ちゃん!」

だいぶ客足の空いている様子の店内で、電波越しでない声を聞くのは久しぶりだった。半分駆けてくるように此方へとやってきた梓さんに、表情が綻ぶ。

「梓さん、お久しぶりです!」

ふにゃふにゃとだらしなく顔が溶けているような気がするけれどそれを抑えることもできず、久しぶりに見られた梓さんの姿に口角が上がるのが止められない。同じように思ってくれているのであろう梓さんも笑顔で私の手を握り締めてくれた。

「ぜんっぜん来てくれないんだもの!待ちきれなくてこっちから行こうかと思っちゃった」
「すみません、すっかり仕事に追われてて。でももう落ち着いたので、暫くはまた通わせてもらいますね」
「本当?うれしい!」

相変わらずの美人スマイルが真正面から向けられてくらくらとした気分になりながら、後ろから入ってきた蘭ちゃんとコナンくんにも声を掛けつつ席に誘導してくれる梓さんの後に続いた。一人で来る時は決まってカウンター席の隅を陣取るけれど、今日は蘭ちゃんとコナンくんも一緒なのでテーブル席へと通された。

「ふふ、本当に来るのを待ってたのよ」
「私も暫く梓さんの顔見られなくて寂しかったんですから、一緒ですよ」
「それもあるし、早く名前ちゃんに紹介したくて」

お冷を運んでくれたお盆で口元を隠しつつ微笑みを浮かべている梓さんは相変わらず可愛らしい。にこにこという形容詞が聞こえてきそうなほどの笑顔と梓さんの言葉に、ああ、と頭の中で納得の相槌を打ってしまう。

「例のアルバイトさんです?」
「そうそう、名前ちゃんはこれからも頻繁にポアロに来てくれるだろうから顔見知りになっておいてもらおうと思って」
「あ、そんなこと言って、私にここでお金を落としていかせる気ですね?」
「あら、ばれちゃった!」
「勿論、それでなくても梓さんの顔が見たくて通っちゃうので安心してください」

私の言葉にまた、も〜!って嬉しそうにしてくれる可愛らしい梓さんに相変わらず頬を綻ばせているのを蘭ちゃんからにこやかに見守られ、コナンくんからは頬杖をついて観察されていた。そんな、梓さんとの久々の再会を楽しみつつも件のアルバイトさんの姿が見えないことに気付き、ゆっくりと首を傾ける。

「それで、例のイケメンさんはどこに?」

私達が入ってきたのと入れ替わりで出て行ったお客さんの他、フロアに他の人の気配は感じられなかった。
今日はお休みか、はたまた奥で作業でもしているのだろうかと思考を巡らせる私の疑問は突如響いた声によって、すっかり頭から追いやられることになる。

「イケメンなんてそんな、買い被りすぎですよ」

甘く、なめらかな声だった。
その声はなんとも耳ざわりの良いもので、カウンター席へと背を向けるようにして座っていた私の背後から聞こえてきたその声色だけでも十分にイケメンを連想させるものだった。
普通の女の子であればそれだけで感情が高ぶったり、あらぬ期待が膨らんだりするのだろう。
けれど、私の中を占めた感情はそれとは全く別のものだった。

どくん。

心臓が大きく高鳴ったかと思った後、ドクドクドクドク。さっきまで一定の速さで刻んでいた鼓動が明らかに速くなっていく感覚に、困惑を覚えた。
けして色恋だとかそんな感情で跳ねたわけではない心音に戸惑い、自分でも何故そんなことが起こっているのか分からないまま、ぶわりと額に汗が滲んだことに、戸惑った。

「安室さん!」
「梓さん、彼女が例の常連さんですか?」

梓さんが笑顔を向けた先からまた、声が聞こえた。甘くなめらかで耳ざわりが良くて、それなのに酷く私の心をざわつかせる声。
ドクドクドクドクドク。早まる心臓の音は中々おさまらず、目の前の景色の中で私の様子を見て訝しげな顔をしているコナンくんの顔が、徐々に意識から外れていく。

「初めまして、安室透と言います」
「あなたが名前さんですね?梓さんからお話は伺っていますよ」
「これから接する機会も多いと思いますし、よろしくお願いしますね」

褐色の肌に、色素の薄いさらさらの髪。透き通った青の瞳が愛想よく、私の顔を覗き込んだ。

「あ…」

その姿を視界いっぱいに受け止めた私の意識は、今から数年前の記憶へと勝手に遡っていった。